いまからちょうど20年前に、『女性セブン』の記事をきっかけに100才の双子姉妹として国民的アイドルとなったきんさんぎんさん。殺到するマスコミの取材に物怖じするどころか、ユーモアあふれる軽妙な受け答えで人気はうなぎ上りとなった。
マスコミからの取材が増えるようになったころ、姉のきんさんは体調が思わしくなかった。心配した妹のぎんさんは、車で15分ばかり離れたきんさんの家をちょくちょく訪ねた。
ぎんさん:「おみゃあさん、どして寝てばかりおる?」
きんさん:「んなこというてもな、口ん中が神経痛になってしもうてな。わしゃ、ちいーっとばかし、気がよわーなってきた」
ぎんさん:「なんじゃて、口ん中が神経痛? そりゃあ、珍しいがね、アッハハハハ」
きんさん:「唇がな、しびれたみたいでにゃあ。好きなうなぎ食うても、味がわからんようになってしもうた」
口だけではない。きんさんは足腰も弱り、長く歩くことができなくなっていた。そんな姉に妹は、こうアドバイスした。
ぎんさん:「おみゃあさん、家ん中に閉じこもっておらんと、ちいーっとは外に出て歩かんと、足がくさってしまうでぇ。運動せにゃ、頭もボケちまうよ」
だが、きんさんは「この年になって、いまさらそんなことしてなんになるきゃあ」と、耳を貸さなかった。この時の様子についてぎんさんの四女・百合子さん(91才)は「そうそう、最初のころは、テレビの取材にもな、きんさんは黙りこくったまんま、まるで元気がなかった」と語る。
それでもこの年の暮れ、きんさんとぎんさんは、『ダスキン』や『通販生活』のCMに登場。「きんは100シャア!」「ぎんも100シャア!」で、全国的にその名を知られるようになる。明けて翌1992年(平成4年)のお正月が過ぎたころから、テレビのワイドショーや新聞、雑誌などの取材陣が、わんさか押しかけてくるようになった。
ぎんさんの五女・美根代さん(89才):「もう、テレビのカメラが5、6台もはいって、そりゃあ、てんやわんや。満員御礼状態になって、襖と障子をな、ぜーんぶ取っ払って大きな広間にするしかなくなっただが」
ぎんさんの三女・千多代さん(93才):「来る日も来る日も、マシュコミの人が来て、それがすごい数だった。ほんと、こんうちの床がにゃあ、抜けるかと思うたよ(笑い)」
ぎんさんの長女・年子さん(98才):「そうやった。私ら4人のおるところがのうなって、庭に出て眺めとるしかなくなったがね」
そんななか、不思議なことが起きた。テレビの収録でライトを当てられるたびに、あれほど元気のなかったきんさんの表情が、生き生きと輝くようになったのだ。いや、きんさんのほうが、取材の受け答えの主導権を握るようになり、ぎんさんのほうが、「姉のいうとおりです」と、立場が逆転するまでになったのだ。
百合子さん:「人に注目されるようになって、きんさんは“これではいかん”と、うちのおばあさん(ぎんさん)に負けじと、気力を燃やすようになったんだがね」
千多代さん:「きんさんが100才で足腰を生き返らしたのは、これはすごいことだったよ。あの気力にはにゃあ、ぶったまげて、もう脱帽だったよ」
姉・きんさんが“やる気”を見せるようになったことに安堵したぎんさんは、4人の娘たちにこう語りかけた。
<顔のしわは増えても、心にしわを生やしちゃ、世の中が面白のうなるでにゃあの>
美根代さん:「テレビに出るだけでも大変なのに、おっかさんは“何か面白いことをいわにゃあ”といつも考えてござったよ。そうやって心に生えるしわを防いどった母は、やっぱりたいした人だったと、このごろようやくわかるようになっただがね」
その感懐に、他の3人が“そう、そう”と相槌を打った。
※女性セブン2012年3月22日号