「鉄骨しか残っていないガソリンスタンド」
「焼け焦げた墓地の駐車場」
1年前のあの日、誰もが、そんな所にと思う場所に、“簡易”の遺体安置所が設けられた。取材に訪れた彼の目の前には遺体があふれ返っていた――。
1万5854人もの死者を出した(3月5日現在)東日本大震災。ノンフィクション作家の石井光太氏(35才)は、震災から3日後の3月14日から約3か月にわたり、人口約3万8000人の岩手県釜石市を中心に被災地の遺体安置所を回った。
当時、遺体安置所は、冒頭のように至る所に設置された。
「これだけの死者が出るのは100年に一度あるかないかの大惨事です。日本人は“死”とどう向き合い、どう送り出すのか。それを知りたかったんです」(石井氏)
石井氏はその記録を一冊にまとめ、昨年10月、『遺体』(新潮社刊)を上梓した。そこには、テレビや新聞が報じなかった被災地の真実が描かれていた…。
普段なら子供たちが汗を流す中学校の体育館。その入り口ドアに「遺体安置所」という紙が一枚貼られていた。混乱の中、釜石市がとった臨時の措置だった。バスケットボールコート一面分の広さの床にブルーシートが敷かれ、遺体収納袋が足りずに毛布やシーツにくるまれた遺体が所狭しと並べられていた。さらにそこへ次から次へと遺体が運ばれてくる。見ると、どの遺体もみな苦悶の表情を浮かべていた。
「津波の死者の場合、口の中に泥がつまって苦しんで死んでいくんです。ですから、ほとんどの人が苦悶の表情を浮かべているように見えました。赤ちゃんからお年寄りまでが、ぐぅーっと噛み締めた顔をしているんです」(石井氏)
歯科医が検歯のために、遺体の口を開けると、歯の裏に黒い砂がぎゅうぎゅうに詰まっていることも多かった。遺体の表情だけでなく、状態も想像を絶するものだった。死後硬直の遺体も多く、それらは亡くなったときの状態のまま、遺体安置所に運ばれてきた。
たとえば、木につかまって亡くなった人は、木から腕をはがすことができず、木を切って丸ごと運ばれてきた。家の机にしがみついて亡くなった人も同じように、机の脚ごと運ばれてきた。
「あるおばあちゃんが幼い孫のご遺体を抱いたまま亡くなっていたんです。指がお孫さんの遺体にぎゅっと食い込んで、なかなか外せなかった。震災直後は、そんな光景がどこでも当たり前のようにありました」(石井氏)
海で見つかった遺体は損傷が特に激しく、正視できないものが少なくなかった。
<人間の姿はここまで残酷に変わり果てるものなのかと思うと、自分と彼らをわけたものが何だったのかと改めて考えてしまう>(『遺体』より)
そんな凄惨な現場で、遺体を収容し送っていたのは、地元・釜石市の人々だった。彼らのおかげで多くの遺族が救われたと、石井氏は話す。
前出の安置所に遺体を運んできたある市職員の言葉が、石井氏は心に残っているという。
「自分が犠牲者だったら家族の元に帰りたいと思う。家族の元に帰る手伝いをしてあげたいんです」(石井氏)
また彼らは、どんな遺体でも見つけたときには、「家族の元に帰れるよ。よかったね」と、声をかけることを忘れなかった。
※女性セブン2012年3月22日号