3月6日、朝から宮城県警機動隊など40名は北上川、富士川が流れ込む海岸線を丹念に捜索していた。
全校児童108人のうち、70人が死亡、今も4人が行方不明の石巻市立大川小学校。北上川、富士川はその目の前を流れている。捜索を指揮する宮城県警機動隊副隊長の阿蘓東彦(あそ・はるひこ)警部はこう言う。
「県内にはいまだ約1700人の行方不明者がいるのです。これまで出来る限りのことを尽くしてきましたが、地元の方の要望、ご家族の方からの要望がある限り、それに応えるのが警察官としての務めだと思っています」
震災直後の捜索では、幼い子供や妊婦、阿蘓警部の両親と同じくらいの年齢と思しき老人の遺体がたくさんあり、思い出すと今でも胸が詰まると言う。
震災直後から大川小学校周辺での捜索活動に従事した宮城県警本部警備課災害対策係の白鳥保幸警部(当時は河北警察署・地域課長)はその時の無力感を忘れない。
「3月12日から5月12日まで捜索しました。震災当日はあたり一面水没してしまい、何もすることができませんでした。翌日からは大川地区の車で行ける所まで行ったんですが、途中堤防が決壊していて、水深が2m前後という状況でした。家の2階部分で助けを求めている方が多数いたので救助しましたが、その後はご遺体の収容が多く、精神的に辛い作業となりました」
甚大な被害に直面し、悩まされたのが、警察の予算不足だった。装備金が非常に少なかったため、河北警察署は沿岸部を管轄するにもかかわらず、ボートが1隻もなかったのだ。
「地元の方が津波被害から逃れた船を出してくれて、救助活動やご遺体の収容に協力して頂きました」(白鳥警部)
装備の不足を補ったのは地元の協力と、もうひとつは警察官の心だった。家族と連絡がつかず、安否不明のまま捜索に従事した者もいる。多くが“地元住民”として痛みを共有していた。
だからこそ、阿蘓警部もこう言う。
「たとえ骨1本でも、ご家族のもとにかえしてあげたいと思っています」
※SAPIO2012年4月4日号