中国の幹部子弟の集まりとされる「太子党」。日本の新聞は、その動向を追うのが大好きだが、ジャーナリストの富坂聰氏によれば、実は中国に「太子党」というグループがあるのかどうかは不明なのだという。新聞は、毎日の出稿のために便利だから使い続けているに過ぎず、日本に当てはめて考えたとき「安部」「福田」「麻生」そして「鳩山」と続いた総理を見て、彼らを「太子党」とひとくくりにするほど乱暴な分析なのだという。以下は、富坂氏の解説だ。
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中国ではいま、薄煕来重慶市党委員会書記(=書記)の解任と、それに絡んだ権力闘争の話題で持ちきりだ。
今秋、権力交代期を迎える中国で、その台風の目が薄であることは私自身もさまざまな媒体で書いてきた。その裏に政治権力が絡んでいることも見立てとして間違いない。
だが、腑に落ちないのは新聞各紙がこれを、習近平を中心とした幹部子弟の二世政治家グループである「太子党」VS胡錦濤を中心とした「共青団(共産主義青年団=団派)」の戦いとして描いていることだ。中国の権力闘争は伝統的に二つの派閥の対立から描かれることが多いが、その見立てが後に現実となったことはほとんどない。というよりも少なくとも私は聞いたことがない。
かつての江沢民閥――上海から中央入りした者が多かったことから上海閥ともいわれた――と団派との確執もそうだが、具体的に両派がどんな問題で何のために争い、その結果どういう結末を招いたのか。その道筋がきちんと示されたことはないのである。
2006年に起きた陳良宇事件が「上海閥」VS「団派」の一例とされているのも嘘だ。この事件の全貌は私が最も早く最も詳しく日本で報じ、後にまったく同じ内容を中国の雑誌『財経』が裁判内容をもとに再現しているから分かるが、原因は胡錦濤が禁じた年金基金の流用をしたからであって、陳自身が公然と中央に対し弓を引いたことに対する指導部の制裁という構図だ。
仮に、江沢民の地盤とされる上海の書記を江自身が守れなかったのが団派による上海派の追い落としにつながったとするのならば、その後の江沢民の求心力が目に見えて低下するはずだが、そんな現象もない。それどころか団派が攻勢を仕掛けたために空席になった上海書記に抜擢された習近平を、今度はメディアが一斉に上海閥のメンバーとして扱い、その理由を江沢民の影響下の上海書記にはそれでなくては就くことはかなわないのだと解説するのだから意味不明だ。
同じように「太子党」VS「団派」の対立も実は誰も確認ができない幻のような対立図でしかない。まず、「上海閥」VS「団派」と同じく、両方に所属していて扱いに困る者が少なからず見つかる――例えば上海の共青団第一書記など――ことだ。
幹部子弟で共青団での重職を担った者も少なくないのだ。そもそも中国政界の実情を紅白歌合戦よろしく二者の対立に収斂させようというのが無理なことだ。いや、それ以前に「太子党」というグループがあるのかさえ不明なのである。
幹部子弟の集まりとされるが、それだけで共産党内で同じ政治目的を持っているといえるのだろうか。「幹部子弟で中国を私物化しよう」という目的なのだろうか。実は、この言葉を使う中国の専門家や特派員で、きちんと言葉の定義や目的、彼らがどんな集りを持って何を実現しようとしているのか、さらには誰がメンバーでそれを証明する状況証拠――あえて証拠とは言わないが――を示せる者に私は出会ったことはない。
結局、幼いころから顔見知りだとか、親が知り合い同士だからという以上の理由が聞かれない。とくに特派員の多くは、この二者対立が現実を反映していないことを自覚しながらも、毎日の出稿のために便利だからと使い続けているに過ぎないのだ。
考えて見ればこの理屈は、日本に当てはめて考えたとき「安部」、「福田」、「麻生」そして「鳩山」と続いた総理を見て、彼らを太子党とひとくくりにするほど乱暴な分析なのだ。
実際、中国の政界の世襲率は日本の政界に及びもつかぬほど低い。中国では親子二代で中央委員という政治家はほんの数%しかない。
日本人のこの発想の根底にあるのは、日本の派閥政治の論理のようだが、この考え方は中国のように過去、激しい党内権力闘争を経て党内の“分派”を極端に警戒する共産党に当てはめることには、慎重であるべきだろう。そもそも共産党内で党内勢力をつくろうとしているとの疑惑をかけられれば、それこそ命取りである。
そして現実にグループを形成して奪権に動く決断ができたとして、実際に有力者同士が理由もなく行き来すれば、これも疑惑の対象となるのである。
中国では副部長級以上の幹部となればSPが付き、行動は極端に制限され始めるのだが、中央指導部ともなれば、さらにそうだ。政治局委員ともなれば有事に備える意味でも党中央弁公庁が一括してスケジュールを管理する対象となるのである。つまり、私的な時間はないに等しいのである。
毛沢東の時代には政治局員同士が理由もなく会うことさえ禁じていたが、現在でも党総書記の目には、誰がいつ誰とどこにいるのかが筒抜けとなるシステムがきっちりでき上がっているのだ。こんな状況下でどうやって十分に意思の疎通を経た派閥が出来るというのだろうか。
もっとも、とはいっても例外がないわけではない。それが引退した国家幹部や革命元勲たちからなる長老グループの存在なのだ。そして彼らが実際にどの程度の影響力を現政権に対して行使しているのかについては、中国政界の最大のブラックボックスで、かつ変数なのではないかと思われるのだ。
少なくとも重要な政策を決定する場面で“拡大会議”という名で長老たちが呼ばれることはいまも多く、その代表的なのが人事の最終決済ともいわれる夏の北戴河会議である。
今回の薄のケースでは、革命歌を歌うという大衆運動を仕掛けた薄は、派閥形成ではなくむしろ長老たちに大いにアピールしようとしたのではないだろうか。それが最終的に現指導部のターゲットになってしまったのだろう。
途中まで現指導部も薄の取り組みを絶賛していたのにもかかわらず、突然手のひらを返したのは、当初は長老たちの好感に守られていたのが、ある種の政治性を帯びたことで潮目が変わったということなのだろう。
そしてその潮目こそが温家宝総理が全人代後の会見で強調した“文化大革命”なのだろう。単に革命歌を懐かしがって歌うだけなら害はないが、「あのころは官僚腐敗も格差もなかった」と現状否定へと傾き、大衆政治運動の匂いを放つようになればそうはいかない。何といっても現政権も長老たちも少なからず文革の犠牲者だからだ。