吉本隆明氏(享年87)は、夏の休暇は必ず西伊豆の土肥で過ごしていた。水泳は得意だったが、1996年8月には土肥町の海岸で遊泳中におぼれて一時意識不明になった。当時の新聞は、診察した医師によれば「事故のあった付近は水深1.2メートルと浅く、飛びこんだ時に海底で頭を打って脳しんとうを起こした可能性が強い」と伝えている。
後に作家・辺見庸氏に語った。
〈少し離れたところを子供が浮き輪や浮き板を使って泳いでいたのはわかっていたんです。それに近付いていって掴まれば溺れずにすんだのかもしれないけれど、そうはしなかった。あ、あっちは違う世界だな。俺がこんな死ぬか生きるかみたいな顔をして、いきなり子供の浮き輪にしがみついたりしたら悪いな、これはぜんぜん違うことだよな、なんて思って〉(『夜と女と毛沢東』)
生死の境で子供を思いやるやさしさは、吉本氏の人柄を象徴しているのだろう。
事故後、『進め!電波少年』(日本テレビ系)が、「二度と溺れないように」と透明の水槽に顔をつけて練習させようと自宅に押しかけた。吉本氏と30年来の親交があり、2冊の共著がある藤井東氏が語る。
「自分を偉くする番組には出ないが、バカなことをさせる番組はいいんだ、といっていました。お宅に伺っても自分でお茶を出してくれるほど気取らない。2008年の忘年会では、糖尿病で眼や足腰が衰えて立って歩くのが難しく、這って座敷に入ってこられました」
※週刊ポスト2012年4月6日号