「戦後最大の思想家」と呼ばれる巨星・吉本隆明氏が3月16日に亡くなった。評論家の呉智英氏(65)が「吉本隆明」について振り返る。
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戦後の思想家でベスト3とかベスト5を選べと言われたら、客観評価として私は吉本隆明を入れるだろう。
全共闘世代の学生、左翼思想傾向の知識人に、確かに大きな影響力があったからである。だが、私は吉本に影響を受けていない。むしろ懐疑的であった。
先日の死去に際し、多くの論者が、大衆の視点という言葉で吉本を語った。吉本の言う「大衆の原像」を踏まえたものである。これは「大衆の真の姿」という意味の造語であるが、当の大衆に「大衆の原像」という言葉が分かるだろうか。
四十数年前、大学生だった私はこの言葉を理解するのに一週間ほどかかった。
もっとも、大衆の原像を組み込まない政治は駄目だという見解は、その通りだと思った。全共闘にしろ、その前の全学連にしろ、「目覚めた大衆」しか考えていなかった。だが、実際、大衆は別に「目覚め」てはいなかったのである。
しかし、そうなると、大衆の原像を最も確実に組み込んでいるのは、吉本が敵対したはずの自民党であり、アメリカだということになる。北朝鮮政府も、大衆は脅迫と瞞着に弱いということを熟知しており、見事に大衆の原像を組みこんでいるのではないか。
ははあ、吉本は「俺だけが真の大衆を知っている」と言いたいのだなと気付いた。これはキリスト教と同じである。神を組みこまない人生は駄目だ。そして、真の神とは何かを我々だけが知っている、という神学である。大衆を模索していた学生や左翼的知識人がこの神学に飛びついたのである。
吉本の「大衆の原像」が完全に破綻したのはオウム事件の時だった。「麻原彰晃を高く評価する」という珍論を発表し、大衆を唖然とさせた。吉本の「大衆の原像」は「大衆の幻像」だったのである。この頃から、吉本の本は学生たちにも(もちろん大衆にも)全く売れなくなった。ただ、全共闘時代に吉本愛読者だった言論人だけが、吉本の新刊を褒めちぎった。
ああ、吉本隆明はこの人たちの「共同幻想」なんだなと、私は妙に納得した。
※週刊ポスト2012年4月6日号