森ビル会長の森稔氏が3月8日に前立腺がんで亡くなった。享年77。森氏は“森ビル”の社名に、従来からある「○○不動産」や「○○地所」との差別化、独自路線への想いを込めた。その真骨頂は、「開発のしようがない」と見向きもしない土地に着目したところだ。
都内の建築士はいう。
「当時の東京は幹線道路ぞいにこそビルが建っていましたが、一本奥に入ると庶民の生活臭漂う家々が並んでいました。森さんは、彼らを説得して土地を提供させ、ひとつの街区をまとめて近代的なビルを建て、企業に賃貸したのです」
時代の追い風も吹く。
「1963年には『区分所有法』が制定され、複数の土地所有者がビルを建て、フロアや部屋ごとに“区分所有”できるようになりました」(同)
森氏は貸しビルの採算性を高める工夫を怠らない。当時の30メートルの高さ制限のもと、他社が8階建てのところを、空調ダクトや建材など様々な工夫を凝らして10階建てにした。
「当然、天井は低くなりますが賃料がリーズナブルなうえ、近代的な設備が完備されているので入居希望の企業が相次ぎました。森ビルとしても、安い賃料ながら部屋数、床面積が増えるのでペイできたんです」(経済紙記者)
とはいえ、創業からしばらくの間、森ビルの評判は決して芳しいものではなかった――不動産ジャーナリストは指摘する。
「高度経済成長期の急激なインフレと固定資産税の上昇があり、それに比例した地代を租借人に要求したんです。さらに不当占拠への厳しい対処も有名でした。事が起こると、すぐ裁判所に立ち退きや権利回復の調停を行なうので、新橋・虎ノ門界隈では“怖い地主”といわれていました」
だが、東京の人口は急増を続け、企業の増収増益で事業拡大が急ピッチとなる。賃貸ビルの需要は、完全に売り手市場となっていく。
「元気な企業が入ると、周囲の商業施設も潤い、街が活性化します。森さんはこの頃、ビルを建てることが、街づくりの基本になるという確信めいたものを感じたんじゃないでしょうか」(同)
オフィスが手狭になれば、次のビルを紹介する――そんな倍々ゲームが展開され、最終的には第45森ビルを数えるまで進展をとげた。
※週刊ポスト2012年4月13日号