「BI砲」として人気を博したジャイアント馬場とアントニオ猪木は40年前の1972年、袂を分かった。以来30年にもわたって「宿命のライバル」となった二人には、知られざるドラマがあった。『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)などの著者、ノンフィクション・ライターの柳澤健氏が迫る。
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ジャイアント馬場は、常にアントニオ猪木のずっと先を走り続けた。
猪木は絶望することなく、馬場を超えようともがき続けた。
1970年を境にプロレスは世界中で凋落していく。しかし日本のプロレスは、このふたりによって異常な発達を遂げた――。
身長2メートルを超える馬場正平は読売ジャイアンツの投手だった。
重いボールが天井から落ちてくるような急角度で投げ下ろされる。コントロールも抜群だった。二軍では3回も最優秀投手に選ばれた逸材だったが、一軍で投げる機会はほとんど与えられなかった。
「異形の大巨人は紳士たるジャイアンツにふさわしくない」と考える人物が球団上層部に存在していた、ということだろう。
ジャイアント馬場とは、ずば抜けたフィジカル・エリートであったのだ。
大洋ホエールズに移籍してまもなく、馬場は風呂場で貧血を起こし、ガラス戸に突っ込んで腕に重傷を負い、引退を余儀なくされた。
球界を去った馬場が力道山の日本プロレスに入門したのは、もちろん生活のためだ。
力道山は馬場を可愛がった。常人離れした体格にスターの可能性を見つけたからだ。
猪木寛至は馬場の5歳年下にあたる。ブラジルで肉体労働に明け暮れていた17歳の猪木をスカウトした力道山は、付き人の猪木に厳しく接した。
「先輩といいところまで戦えた、と満足してリングを下りた直後、木刀で頭を叩き割られたことが何度もあった」(アントニオ猪木)
まもなくアメリカに遠征した馬場は、アメリカン・プロレスの全貌を知ることになる。
アメリカン・プロレスとは西部劇であり、すなわちアメリカ建国神話である。
アメリカ合衆国とは、白人のゴロツキがヨーロッパから新大陸に渡り、有色人種のネイティブ・アメリカンを大量に虐殺して作り上げた国家である。
しかし、アメリカ人は真の歴史を直視できない。そのためにアメリカ人は「悪い有色人種が善良な白人を襲ってきた。だから反撃して倒し、平和が回復された」という物語を繰り返し作らなくてはならなかった。西部劇もハリウッドのアクション映画もプロレスも、すべてはアメリカを正当化する装置なのだ。
アメリカン・プロレスに必要なのは、身体の大きな有色人種の悪役である。悪く強く卑怯な有色人種を倒すからこそ、アメリカの正義、白人の正義が光り輝くからだ。
かくして東洋の大巨人ショーヘイ・ババは悪役レスラーとして全米でひっぱりだこになった。ニューヨーク、シカゴ、セントルイス、フィラデルフィア。馬場がメインイベントに登場すれば、すべての会場が超満員。対戦相手もバディ・ロジャース、アントニオ・ロッカ、ブルーノ・サンマルチノ等の超一流レスラーばかり。アメリカ時代の馬場は、1試合で2万ドル(当時のレートで700万円)を稼ぐこともあったという。
ニューヨークのビンス・マクマホン・シニアに「ババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)」というリングネームをつけられ、メインイベンターとして飛ぶ鳥を落とす勢いにあった馬場は、力道山がヤクザに刺されて死亡したことを遠征中に知った。
大黒柱が死んだ。日本プロレスは存亡の危機に瀕している。すぐに帰国してほしい。
芳の里、豊登らの幹部は馬場に懇願した。
馬場は迷った。アメリカに残れば大金を稼ぐことができるからだ。だが結局、馬場は帰国を選んだ。
選手はケガをしてしまえば何の補償もないことはプロ野球時代の経験からも明らかだった。
だが、力道山の後継者となり、組織の長となれば安定した高収入が得られる。それこそが自分の進むべき道だ、と馬場は考えた。
※週刊ポスト2012年4月13日号