今年に入り、アフガニスタンでは米軍兵士による民間人への銃乱射など事件・不祥事が続発している。現地情勢が混迷を深める中、アフガンの秩序回復のために尽力する“日本人米兵”がいた。異色の経歴を持つ米空軍少佐の奮闘をフォトジャーナリスト・横田徹氏がレポートする。
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アフガニスタン東部、ホースト州にある警察訓練センター。朝から警察官志望の若者たちが訓練を受けていた。
積み上げたコンテナで仮想の市街地が作られ、建物に立て籠るテロリストを逮捕するというシナリオで訓練は進む。アフガニスタン人教官がライフルの扱い方、移動方法などを細かくチェックする。
訓練を見守るのはNTM-A(NATO-Training Mission-Afghanistan)に所属する米軍兵士とヨルダン国家警察の警察官だ。私が訓練センターを取材した1月、そのNTM-Aのチームに1人の「東洋人」の姿があった。190cmの身長は、大柄な米軍兵士に混じっても人目を引く。
訓練隊長を務める米空軍の内山進・少佐である。
「こうした施設があるのはホースト警察訓練センターだけです。部下たちが工夫して作ったもので、訓練生は卒業後、国境警察に配属されます」
アフガニスタンの中でもパキスタン国境地帯は特に治安が悪いが、訓練生の士気は高い。かつてSRT(Special Reaction Team=憲兵の特殊部隊)の隊長だった内山少佐は、8週間の厳しい訓練を経て卒業間近の訓練生たちを満足気に見つめていた。
質問には、日本語で淀みなく答える。一体どのような経歴の持ち主なのか。
「日本で警察官に育てられた私が米軍の憲兵になり、アフガンの警官を指導しているのですから、不思議ですよね」
そう語る内山少佐は1963年に東京都中野区で生まれた。幼少時、父親が仕事を頻繁に変え、両親は夫婦喧嘩が絶えなかったという。心配した母の姉夫妻がまだ2歳だった内山氏を預かった。伯父は地元交番勤務の巡査部長、伯母は補導員だった。叱る時は柔道の寝技を使う伯父は、弱い者を守る“正義の味方”で、内山少年にとって警察官は憧れの職業だったという。
「正義を貫く勇気を持て」
伯父の言葉は内山少年の心に強く残った。
小学1年生で内山少年は親元に戻り、家族と共に広島に移り住んだ。その後、大学2年生の時に交換奨学留学生として渡米。ミズーリ州立大で化学の学士号を取得後、イリノイ大学大学院に進学した。
米軍に入ったきっかけはほんの小さな偶然だった。1990年、イラク軍がクウェートに侵攻。その翌年、内山氏はシカゴの空港にいた。クウェートを占領したイラク軍兵士が喜ぶニュース映像を放送していたロビーのテレビを見る内山氏に、1人の軍人が近づいてきた。
「君はいい体格してるね。陸軍に入らないか? 今、兵隊が足りないんだよ」
陸軍のリクルーターだった。
「軍に入ればアメリカ永住権が取得出来る」。
翌日には陸軍の入隊募集所に向かっていた。新兵訓練所、士官学校を卒業し1999年まで憲兵隊の将校を務める。その後一時、民間企業に務めるが2002年に今度は米空軍に入隊。米国内のミサイル基地警備を担当する憲兵となる。
在日米軍横田基地への転属で故郷の土も踏んだが、一方で2006年と2008年には情勢が悪化していたイラクのバグダッドに派兵される。主な任務は基地の警備強化で、毎日が命懸けの任務だった。この間にグリーンカード(永住権)を得て、その後に米国籍を取得した。そして2011年、アフガニスタンにやってきた。
※SAPIO2012年4月25日号