中国の次期最高指導者・習近平氏の支持層がいま、胡錦濤・温家宝ら現体制側の大粛清に晒されている。重慶市トップの薄熙来・党委書記が3月15日に突如解任された。薄氏の追い落としに加担したとみられる温家宝首相は、全国人民代表大会(全人代)の記者会見で、「文化大革命(※)の悲劇が再び繰り返される恐れがある」と話したが、中国ではすでに文革を彷彿とさせる大粛清が繰り広げられているのだ。
中国の権力闘争の内幕を中国問題に詳しいジャーナリストの相馬勝氏がレポートする。
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温首相自身が文革の被害者だった。父親は小学校の教師だったが、文革の知識人迫害によって、10年以上も豚小屋の掃除係を強要された。祖父も文革以前の政治運動で、反革命分子として批判されたことがもとで、脳溢血を起こす。家で倒れていたところを見つけた温少年が背負って医者に運んだが、時すでに遅く、絶命したあとだったという。
温首相は北京地質学院を苦学の末に文革中に卒業、以後14年間、辺境の甘粛省で働いた経験がある。
習副主席も文革によって人生を翻弄された。父親の習仲勲氏は副首相などを歴任した建国の元老的存在だったが、毛沢東主席転覆を図る「反党集団の頭目」と疑いをかけられ、身柄を拘束された。その後の文革では批判闘争大会で激しい拷問を受けるなど16年間にわたり自由を奪われる生活が続いた。習氏の母親も数年間、労働改造所で労働を強いられている。
習氏自身も16歳のころ、地方に下放され、電気も水道もない陝西省の片田舎で青春時代を送らざるを得なかった。連日、重労働の連続で、批判闘争大会では父の習仲勲氏を自らやり玉に挙げなければならない状況だった。さらに、姉や異母兄弟も地方に下放され、姉のうちひとりは闘争大会にかけられて死亡している。
習氏は持ち前の包容力が地元住民や党幹部に慕われ、地区の責任者に祭り上げられるなど、徐々に頭角を現わし、逆境をバネにしたしぶとさで今の地位までのし上がった。
現在では、文革は経済政策で失敗した毛主席が、劉少奇氏や鄧小平氏らの追い落としのために行なった権力闘争だったと分析されるのが一般的だ。
最大の標的とされた劉氏は学生らのつるし上げを受けて、数時間にわたって執拗な拷問を受けた。身体の各所が骨折しても治療を受けさせてもらえず、食事も満足に与えられなかった。
内臓の病気にかかって寝たきりとなっても、排泄物も処理されず垂れ流しの状態だった。1969年11月、河南省開封市の倉庫に幽閉され、ベッドに身体を縛り付けられたままの状態で70歳の生涯を閉じた。
文革に限らず、現在に至るまで中国では権力交替期には常に暴力と粛清が吹き荒れてきた。
代表的な例が1995年、江沢民主席ら上海閥と、陳希同・北京市党委書記ら北京閥の権力闘争である。江氏らは陳氏の腹心である王宝森・副市長の汚職を追及し、その結果、王氏はピストル自殺を遂げる。これを機に、江氏らは北京閥の腐敗を洗い出して陳氏ら22人を逮捕し、一挙に上海閥が実権を握ったのである。
2006年9月には、この事件とは逆に、江氏ら上海閥が危機的な状況に追い込まれた。上海市トップの陳良宇党委書記が腐敗容疑で逮捕されたスキャンダルだ。翌2007年秋の第17回党大会を控え、胡主席ら中国共産主義青年団(共青団)閥が上海閥に打撃を与えるための逮捕だったという見方が一般的だ。
しかし、その後、江氏らは巻き返しを図り、後任の上海市トップとして、太子党(幹部子弟グループ)の習近平・浙江省党委書記(当時)を抜擢。さらに党大会では胡主席が後継者として強く推す共青団閥の李克強氏を抑えて、次期最高指導者の座を確実にしている。
※文化大革命/1965年に始まった10年以上にわたる改革運動。大躍進政策の失敗により2000万人以上の餓死者を出し国家主席を辞任した毛沢東が、権力回復の為に起こしたとされる。紅衛兵と呼ばれる毛沢東の私兵が徹底した思想統制、拷問、財産没収などを行なった。共産党内の重要幹部も次々と粛清され、犠牲者は数千万人に及ぶとされている。
※週刊ポスト2012年4月20日号