4月を東京で、まさにページをめくるような心持ちで迎える人は今も昔も多い。「上京」という言葉には、期待と不安、志や覚悟、惜別・郷愁といった様々な感情が濃密に内包されている。物語は人の数だけある。映画監督・大林宣彦氏(74)の場合。
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私が上京した昭和31年といえば、広島・尾道の人間にとって、東京は夢の街、映画で観ることのできたパリやロンドンより遠い場所でした。リアルに想像できる移動の限界は、せいぜい大阪や京都まで。16時間30分立ちっぱなしで特急「あさかぜ」に乗り、大井川や箱根などという“難所”を越えて東京へ行くことなど、想像をはるかに越えた行為だったんです(笑い)。
今でも思い出すのは列車の窓から初めて生で見た富士山です。松竹映画のタイトルバックで見ていたのはモノクロでしたから、総天然色の富士山の美しさには驚きました。朝日を浴びたその山はじつに大きくて、「この山に登れるんだ」と勇み立ちました。
私たちの時代は情報社会じゃありませんから、何事も体験するのが前提でした。見るだけという「虚構」の世界を、体験することによって「現実」の世界にするわけです。だから当然、上京した翌年に富士山に登りました(笑い)。
代々医者の家系に長男として生まれた私は、「大人になるというのは医者になること」という環境で育ちました。ところが、いつのころからか秘かに小説家になりたいと思うようになった。大阪や京都の医学部に行けば間違いなく医者になってしまうけど、東京の大学なら違う――そんなことを漠然と考えていたんです。何しろ私にとって東京は非現実的な街でしたから(笑い)。
慶応義塾大学の医学部を受けたいといい出した私に、両親は反対しませんでした。「この子は医者にならないかもしれない」と感じたのかもしれません。
そんな私が上京してまず向かったのは大森でした。当時、私にとって最高の小説は福永武彦の『草の花』で、ヒロインの藤木千枝子は大森の高台に住んでいるという設定でした。
小説に書かれた家などあるはずないのはわかっています。それでも一日中表札を見て回り、そんな家がないことを確認する。切なくも、〈これが東京なのだ〉とホッとする。そこで初めて東京が私にとってリアルな街になったのです。
慶応義塾大学の受験は最初の英語だけ受けて、受験番号と名前を消して提出しました。そのまま会場を飛び出し、地下鉄で浅草まで行って映画を観ました。映画館から出た私は、父に「イシャヤメタ エイガデイキル」(医者やめた 映画で生きる)と電報を打った。自分の生きる道を決めた瞬間ですね。
東京の生活で戸惑ったのは、食べ物です。魚屋で切り身が売られているのには驚きました。尾道では、魚は母親が家でさばくものと決まっていたからです。
鯵を食べたのも初めてでした。母に「東京には鯵という美味い魚があるんだ」といったら、「尾道にもあるわよ。うちの犬が毎日食べてたじゃないの」といわれて絶句しました(笑い)。
※週刊ポスト2012年4月20日号