ライフ

大林宣彦氏 医学部入試会場出て「イシャヤメタ」と電報した

 4月を東京で、まさにページをめくるような心持ちで迎える人は今も昔も多い。「上京」という言葉には、期待と不安、志や覚悟、惜別・郷愁といった様々な感情が濃密に内包されている。物語は人の数だけある。映画監督・大林宣彦氏(74)の場合。

 * * *
 私が上京した昭和31年といえば、広島・尾道の人間にとって、東京は夢の街、映画で観ることのできたパリやロンドンより遠い場所でした。リアルに想像できる移動の限界は、せいぜい大阪や京都まで。16時間30分立ちっぱなしで特急「あさかぜ」に乗り、大井川や箱根などという“難所”を越えて東京へ行くことなど、想像をはるかに越えた行為だったんです(笑い)。
 
 今でも思い出すのは列車の窓から初めて生で見た富士山です。松竹映画のタイトルバックで見ていたのはモノクロでしたから、総天然色の富士山の美しさには驚きました。朝日を浴びたその山はじつに大きくて、「この山に登れるんだ」と勇み立ちました。
 
 私たちの時代は情報社会じゃありませんから、何事も体験するのが前提でした。見るだけという「虚構」の世界を、体験することによって「現実」の世界にするわけです。だから当然、上京した翌年に富士山に登りました(笑い)。
 
 代々医者の家系に長男として生まれた私は、「大人になるというのは医者になること」という環境で育ちました。ところが、いつのころからか秘かに小説家になりたいと思うようになった。大阪や京都の医学部に行けば間違いなく医者になってしまうけど、東京の大学なら違う――そんなことを漠然と考えていたんです。何しろ私にとって東京は非現実的な街でしたから(笑い)。
 
 慶応義塾大学の医学部を受けたいといい出した私に、両親は反対しませんでした。「この子は医者にならないかもしれない」と感じたのかもしれません。
 
 そんな私が上京してまず向かったのは大森でした。当時、私にとって最高の小説は福永武彦の『草の花』で、ヒロインの藤木千枝子は大森の高台に住んでいるという設定でした。
 
 小説に書かれた家などあるはずないのはわかっています。それでも一日中表札を見て回り、そんな家がないことを確認する。切なくも、〈これが東京なのだ〉とホッとする。そこで初めて東京が私にとってリアルな街になったのです。
 
 慶応義塾大学の受験は最初の英語だけ受けて、受験番号と名前を消して提出しました。そのまま会場を飛び出し、地下鉄で浅草まで行って映画を観ました。映画館から出た私は、父に「イシャヤメタ エイガデイキル」(医者やめた 映画で生きる)と電報を打った。自分の生きる道を決めた瞬間ですね。
 
 東京の生活で戸惑ったのは、食べ物です。魚屋で切り身が売られているのには驚きました。尾道では、魚は母親が家でさばくものと決まっていたからです。
 
 鯵を食べたのも初めてでした。母に「東京には鯵という美味い魚があるんだ」といったら、「尾道にもあるわよ。うちの犬が毎日食べてたじゃないの」といわれて絶句しました(笑い)。

※週刊ポスト2012年4月20日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

山口組分裂抗争が終結に向けて大きく動いた。写真は「山口組新報」最新号に掲載された司忍組長
「うっすら笑みを浮かべる司忍組長」山口組分裂抗争“終結宣言”の前に…六代目山口組が機関紙「創立110周年」をお祝いで大幅リニューアル「歴代組長をカラー写真に」「金ピカ装丁」の“狙い”
NEWSポストセブン
「衆参W(ダブル)選挙」後の政局を予測(石破茂・首相/時事通信フォト)
【政界再編シミュレーション】今夏衆参ダブル選挙なら「自公参院過半数割れ、衆院は190~200議席」 石破首相は退陣で、自民は「連立相手を選ぶための総裁選」へ
週刊ポスト
Tarou「中学校行かない宣言」に関する親の思いとは(本人Xより)
《小学生ゲーム実況YouTuberの「中学校通わない宣言」》両親が明かす“子育ての方針”「配信やゲームで得られる失敗経験が重要」稼いだお金は「個人会社で運営」
NEWSポストセブン
中居正広氏と報告書に記載のあったホテルの「間取り」
中居正広氏と「タレントU」が女性アナらと4人で過ごした“38万円スイートルーム”は「男女2人きりになりやすいチョイス」
NEWSポストセブン
『月曜から夜ふかし』不適切編集の余波も(マツコ・デラックス/時事通信フォト)
『月曜から夜ふかし』不適切編集の余波、バカリズム脚本ドラマ『ホットスポット』配信&DVDへの影響はあるのか 日本テレビは「様々なご意見を頂戴しています」と回答
週刊ポスト
大谷翔平が新型バットを握る日はあるのか(Getty Images)
「MLBを破壊する」新型“魚雷バット”で最も恩恵を受けるのは中距離バッター 大谷翔平は“超長尺バット”で独自路線を貫くかどうかの分かれ道
週刊ポスト
もし石破政権が「衆参W(ダブル)選挙」に打って出たら…(時事通信フォト)
永田町で囁かれる7月の「衆参ダブル選挙」 参院選詳細シミュレーションでは自公惨敗で参院過半数割れの可能性、国民民主大躍進で与野党逆転へ
週刊ポスト
約6年ぶりに開催された宮中晩餐会に参加された愛子さま(時事通信)
《ティアラ着用せず》愛子さま、初めての宮中晩餐会を海外一部メディアが「物足りない初舞台」と指摘した理由
NEWSポストセブン
「フォートナイト」世界大会出場を目指すYouTuber・Tarou(本人Xより)
小学生ゲーム実況YouTuberの「中学校通わない宣言」に批判の声も…筑駒→東大出身の父親が考える「息子の将来設計」
NEWSポストセブン
大谷翔平(時事通信)と妊娠中の真美子さん(大谷のInstagramより)
《妊娠中の真美子さんがスイートルーム室内で観戦》大谷翔平、特別な日に「奇跡のサヨナラHR」で感情爆発 妻のために用意していた「特別契約」の内容
NEWSポストセブン
沖縄・旭琉會の挨拶を受けた司忍組長
《雨に濡れた司忍組長》極秘外交に臨む六代目山口組 沖縄・旭琉會との会談で見せていた笑顔 分裂抗争は“風雲急を告げる”事態に
NEWSポストセブン
「週刊ポスト」本日発売! 中居トラブル被害女性がフジに悲痛告白ほか
「週刊ポスト」本日発売! 中居トラブル被害女性がフジに悲痛告白ほか
NEWSポストセブン