大林宣彦監督の最新作『この空の花』が5月12日に公開となる。2009年に監督が新潟・長岡の花火を初めて見てから、東日本大震災を経て、今年完成したその作品には、長岡での戦争の歴史、花火への人々の思いと亡き人々への祈り、そして、未来を生きる子供たちへの希望が描かれている。
カリスマ映画監督である彼が、それまでの撮影スタイルを脱ぎ捨て、デジタルカメラ5台、編集はパソコン1台のみを使い、自主映画としてでもつくりたかったこの作品。彼がどうしても伝えたかったこととは? 大林監督が語る。
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ぼくは、自身の古里である広島・尾道を舞台に、多くの作品を作ってきました。それは、町おこしなどといいながら、日本人の手で、敗戦後も焼け残っていた貴重な文化までがどんどん消されていきつつあったのを止めたかったからです。
ぼくはそんな古里の古い暮らしばかりを撮りながら、日本の戦後の復興を、自分なりに問い直してきたのです。
この映画の脚本を執筆している最中、東日本大震災が起こりました。そのとき、ぼくは大分県にいたのですが、全国の友人から電話がきて、東京も危ないから帰ってくるな、といわれました。そういわれて、ぼくはムラムラと腹が立ったんです。冗談じゃない、ぼくは卑怯者じゃないよ! と。逃げられるものなら戦争中に逃げてますよね。
それで急いで東京に戻り、すぐに被災地に行こうと思ったのですが、待てよ、73才の老人が行って、なにができるのだろう? 足手まといになるだけではないかと思ったんです。しかも、ドキュメンタリー映画作家ならいざしらず、ぼくのような劇映画の監督は、よい絵を求めて現場に行くわけです。いまの被災地を背景にして、どんなドラマが描けるでしょう? そんなキャメラは回せません!
ぼくはこのときほど医者にならなかったことを後悔したことはありません。というのも、ぼくの家は医者の家系で、長男ながらぼくは医者にはならず、“よく効く薬のような”映画をつくろうとしてきました。でも医者になっていたなら、73才の老人でも、被災地で役に立てたことでしょう。
正直、映画の製作もやめようかと思いました。おそらくあらゆる表現者の頭の中は真っ白になり、表現力を失ってしまったことでしょう。そんななか唯一見事な表現をしたのが、東日本の被災者でした。
毎日、テレビやラジオ、新聞を通じて、支援者への感謝の気持ち、この里を復興させるための決意と勇気を見事に表現していたのです。南相馬市の高校生は、
「いままで“一所懸命”や“頑張る”という言葉は恥ずかしくていえなかったけれど、これから頑張って復興させます」
そんな美しい言葉で日本人の忘れていた心を表現し、それに世界中が感動していたのです。それは政治家も経済界もできなかった外交を、見事にやり遂げた姿でした。
※女性セブン2012年5月3日号