宗教に今、異変が起きている。スピリチュアルスポットや、京都や奈良の観光寺院には人だかりができる一方、葬儀の簡略化などで寺院の経営基盤は大きく揺らいでいる。異変の陰に何があるのか、宗教学者の島田裕巳氏が解説する。
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今、京都や奈良の神社仏閣には老若男女を問わず観光客があふれている。全国各地に散在するパワースポットと呼ばれる場所にも、大勢の人が集まっている。特にこれまでそうした場所で見かけなかった若者の姿が増えているのに驚かされる。こうした現象は一見、宗教への関心の高まりを示しているようだが、その中身は大きく変質している。
彼らが求めているのは「日常の中の癒やし」であり、従来、宗教が担っていた「病争苦」からの「救い」ではない。その理由は二つある。
一つ目は、長い歴史のスパンで見れば、今は社会が安定している時期だということにある。確かに東日本大震災が起こったり、北朝鮮のミサイルの脅威もあるが、日本の社会システムそのものは経済の発展が止まったこともあり、かつてないほど安定している。
やはり社会が安定していた江戸時代には、レジャーとして伊勢参りをはじめとする寺社めぐりが盛んになった。神仏を拝み、桜を愛で、束の間の癒やしを求める姿は、江戸時代の人たちのそれと重なる。
もう一つは、オウム真理教が1995年に起こした地下鉄サリン事件などを通じて、宗教は「危険なもの」「いかがわしいもの」という警戒感が浸透したことがある。
オウム事件の後も、1999年には「ライフスペース事件」が起きた。この事件では、シャクティパット(頭部を手で叩く宗教的な病気治療の方法)で死亡した信者の家族について、代表が「死んではいない」と主張し、成田市内のホテルで遺体がミイラ化していく様子を信者が記録し続けた。
さらに2003年には、電磁波を除けるために白装束をしたパナウェーブ研究所が大きな話題になった。こうした問題が相次いだことで、宗教に対する嫌悪感が高まったといえる。
だからといって、現代の人間が悩みや苦しみを抱いていないわけではない。問題は、宗教の側が苦しむ人々に「救い」を与える手だてを持っていないことにある。
日本では年間3万人にものぼる人が自殺しているが、宗教はこうした自殺や孤独死、そして経済的な困窮に対して無力なままなのだ。
※週刊ポスト2012年5月4・11日号