ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は、大和の“出撃前夜”について、こう綴っている(文中敬称略)。
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米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは、昭和二十年四月一日である。大和ら第二艦隊に沖縄への水上特攻が命じられたのは、四日後の四月五日だ。
左舷高角砲を指揮した渡辺英昌大尉(90)は、その命令が有賀幸作艦長から士官たちに伝えられた時のことを記憶している。
「大和の広い艦長室に士官が集められました。前に有賀艦長と能村(次郎)副長の二人がこちらを向いて立っておられました。艦長は、“大きな意味で悠久の大義に殉じることが決まった。今回の作戦は水上特攻である。われわれの目的は、沖縄の敵泊地に突入し、敵輸送船団を撃滅することだ。うまくいけば艦そのものを沖縄にのしあげて、砲台となって上陸した敵に砲撃を加える”と仰いました」
それは、その場にいた士官たちの背筋に電流が走るほど迫力のある命令だった。
その夜は、出撃を前にして無礼講の飲み会が艦内でおこなわれた。死出の旅路の「壮行会」である。
それぞれの部署で人生最後の宴会が開かれた。
「酒保を開け!」
三千人を超える空前の規模の飲み会が、能村副長のそのひと言で始まった。
三番高角砲の射手、亀山利一(89)は、開戦時の南方侵攻作戦から戦い続けるベテランだ。
「あの時は、最初、分隊ごとに湯飲みを持って部屋に集まってな。廊下まであふれて並んだねえ。まず一合ずつもらって始めたな。それぞれ軍歌を歌ったりなんかしてな。おい、明日は靖国神社で会おうと言ってな。もちろん、一合じゃ足らん。分隊長が“どうせ沈めてまうのやで、俺の名前で持ってこいっ”て、一升瓶でどんどんもらってきた。飲む人は飲んで、歌って、それで、ああ明日、俺らは靖国神社で会うぞって、ひと晩、すまえた(過ごした)のや」
三千人の無礼講の飲み会を終え、大和がいよいよ沖縄へ向かって出撃したのは、翌六日午後四時過ぎである。
「前甲板に集合!」
乗組員に号令がかかったのは、出航直後、夕日が沈みかかった頃だった。
運用科の八代理(87)はこの時、甲板に集合した。
「出航した時、大和はできるだけ陸のほうを通りました。夕日にかかる頃、全員、前甲板へという号令がかかって、みんな、ばあーっと行ったんですわ。甲板の一番主砲の砲塔の上に能村副長が立ってね。ちょうどその時、風が吹いたんです。
そしたら、陸地から結構離れとるのに桜がばあーっと大和まで飛んできたんですよ。それ見て、ああこの桜、日本ともこれでお別れだ、と思ってね。ひとひらを拾って胸のポケットに入れました。海岸線では、万歳、万歳ゆうて住民が手を振ってくれていました」
何気ない風景がそれぞれの脳裡に刻まれていった。
※週刊ポスト2012年5月4・11日号