東日本大震災により、死者・行方不明者約600人、全半壊した家屋約4500戸という壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市。震災から1年が経った同市を、『女性セブン』の名物記者・オバ記者が訪れた。
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津波がでたらめに破壊した、ありとあらゆるものが“がれき”になって、野球場だったところにうずたかく積まれている。石油のタンクからビールケースのようなものまで、そのひとつひとつが生活者の形跡だと思うと、無力感に襲われる。ちなみに全国の震災がれき2253万トンのうち、現在までに最終処分できたのはわずか約7%。まずはこのがれきを何とかしないと復興は進まない。
田老地区の平地は片づけ終わって何もない。三陸鉄道の車窓から一度見てはいるけれど、実際に現場を歩いてみると、その感じ方はぜんぜん違う。被災地で出会った田老地区の年配の女性が話してくれた。
「昭和8年(1933年)に津波が襲ってきたときの写真を見たことがあるんですけど、翌朝の状態は今回とうりふたつ。地震はいつ来てもおかしくないというのは、この地区の人間なら誰でもわかっていたこと。だけど防潮堤が守ってくれると、みんな信じ込んじゃったの」
田老地区では1896年の明治三陸地震で1859人、1933年の昭和三陸地震で911人が津波などで亡くなっている。それを教訓に1934年から四半世紀かけて整備され、1958年にできた防潮堤。142人の死者が出た1960年のチリ津波で田老地区はまったく被害を出していない。1966年、1979年と2度にわたって増築して高さ10 m、総延長2.4kmの国内最大級の防潮堤となった。
確かに、防潮堤の上に立つと、津波が乗り越えるなんて、とても信じられない。なのに、今回の津波で建物の約7割に当たる1668棟が流され、死者、行方不明者は田老地区だけで226人に上った。いま、県では、防潮堤を最大14.7mにかさ上げして再整備する方針を打ち出しているが、田老地区は再建をめぐって、住民が2分しているという。
高台に集落が引っ越す“集団移転案”と、集落を残す“現地再建案”のどちらにするかで住民が話し合ってきた。最終的に希望者のみが高台へ移転する案にまとまったが、高齢者の多くは地域への愛着から現地再建への思いは強い。
「外から見たら“被災地”の“被災者”でしょうけど、どこに家があったか、あの日、どんな状況で被災したかで、事情がまるで違う。同じ被災者はいないんですよね」
三陸鉄道の列車で会った初老の女性の言葉を思い出した。
「だから同じ地域で被災したからといって、コミュニケーションが取れるわけじゃない。それがいまいちばん苦しい」といって、押し黙ってしまった。
被災者の声に丁寧に耳を傾けることが復興には欠かせない。オバはそう強く感じた。
※女性セブン2012年5月3日号