18年間続いた若者向け雑誌『GORO』。グラビアの人気だけでなく、音楽記事やスポーツ記事の充実ぶりもよく知られており、それらを担当したのが、まだ若手ライターだった沢木耕太郎氏、海老沢泰久氏、山際淳司氏らだ。自他共に認める“雑誌小僧”であり、『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』の著書もある評論家の坪内祐三氏が懐かしの『GORO』を回顧する。
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バックナンバーを順に追って若手ライターの登場ぶりをチェックしてみよう。
沢木耕太郎の本格的な初登場は一九七六年三月十一日号だ。そしてそのタイトルは、「人間・小椋佳の“実像”を初めて見た!!」。さらに沢木耕太郎は同年十一月二十五日号で角川春樹にロングインタビュー(BIG INTERVIEW)を行なっている。
海老沢泰久の初登場は一九七七年六月九日号(「若トラ掛布は父親によって作られた“ベースボールマシーン”なのか」)だが、興味深いのはそれに続くプロ野球ノンフィクションの第二弾(同年八月十一日号に載った)、「広岡達朗が巨人軍監督になる日」だ。
そのノンフィクションで海老沢泰久は広岡のこのような言葉を引き出している。
「巨人の選手はよその球団の選手とちがうんです。野球をよく知っている。よその球団で仕事をするとよく分る。たとえば、ランナーセカンドでヒットが出る。ちゃんとその一本でホームに還ってくるのは巨人の選手だけですよ。
カーンと打球音がした瞬間にスタートをきっている。よその球団の選手は二、三塁間でボールの行方を確かめてヒットと分ってからよいしょと走りだす。それだけの差があるんです」
「巨人ではどんなに勝っても誰もほめてくれない。当たり前と、こう言われるだけです。ところがよその球団のオーナーは男芸者でも囲ったつもりでいるからよくやったとすぐにほめあげる。甘いんです」
それだけのことが分っていて、なおかつジャイアンツではないチーム(ヤクルト)の監督をしなければならないのは、「虚しくはありませんか」と海老沢泰久が尋ねたら、広岡はこう答えた。
「いや、ジャイアンツのようなチームはつくれますよ。そしてそうすることがわれわれ巨人出身者に求められていることなんです」
その言葉通り、広岡は翌年(一九七八年)ヤクルトスワローズを初の日本一に導き、さらに西武ライオンズをかつての読売ジャイアンツのようなチームに築き上げる。
※週刊ポスト2012年5月4・11日号