中国共産党の重慶市委員会書記を解任された薄熙来氏が2月、腹心だった王立軍・副市長が北京に身柄を移送されたことを知り、地元の重慶に駐留している解放軍部隊を動かしてクーデターを計画していたことが明らかになった。中国事情に詳しい国際教養大学教授のウィリー・ラム氏が報告する。
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薄熙来氏のクーデター計画は事前に漏れ実行には至らなかったが、一歩間違えば、文化大革命(1966~1976年)で多発した軍や民兵組織などによる武闘に発展した可能性もあり、極めて緊迫した状況だったことが改めて分かった。
北京の中国筋によると、王氏が四川省・成都市の米国総領事館に駆け込んだ際、パトカーや軍の装甲車両など数十台が総領事館を取り囲み、いまにも攻撃が始まるかのような状況だった。その際、薄氏は5000丁の自動小銃と50万発の弾丸を用意していたという。
しかし、2月7日夜、北京から国家安全省や中央紀律検査委員会のほか、国防省の将校も派遣され、王氏の身柄が確保、北京に移送されると、薄氏は翌8日、重慶駐留部隊を率いて、軍用機で雲南省昆明市に移動した。
昆明は重慶市、四川省や雲南省、チベット自治区などを管轄する成都軍区の主要基地が置かれている。さらに薄氏の父親で、新中国建国の元老でもある薄一波・元副首相が国共内戦中、第14集団軍の軍事拠点を置き、その司令官を務めていたところ。それだけに、薄熙来氏にとっては、最も頼れる軍事基地だった。
だが、その動きはすぐに中央に察知され、胡錦濤主席の命令によって多数の軍が昆明に向けて進軍しているとの情報が入ったことから、薄氏は中央の軍を迎え撃つことも考えたが、多勢に無勢だけに、重慶市に戻るしかなかったという。
薄氏が玉砕覚悟で中央の軍を迎え撃っていれば、両軍による軍事衝突が起き、大きな混乱が発生した可能性が高いのだが、いずれにしても薄氏は無事では済まなかったことは容易に想像できる。その後北京でクーデター騒ぎが起きたとツイッターなどで囁かれたが、これらの経緯から見ると、北京でのクーデター騒ぎはそれほど信憑性がなかったわけではない。
同筋によると、軍事クーデター計画は事前に漏れており、薄氏の陰謀はいずれ破綻する運命だったのは確かだ。それは、昨年11月10日、胡主席がAPEC(アジア太平洋経済協力会議)でハワイを訪問した留守をねらって重慶で軍事演習を行なったためである。
中国国営新華社電によると、この演習は「成都軍区国動委(国家国防動員委員会)第六次全体会議実兵演習訓練」で、重慶市が自然災害に襲われた際、軍が出動して、重慶市民を守るというのが基本的なコンセプトだった。
すでにこの時点では、王副市長から薄氏の腐敗問題などが党中央に報告されており、胡主席や温家宝首相は薄氏や重慶市の腹心の動きに警戒。演習後、現地で軍の指揮を執っていた梁光烈・国防相から薄氏にクーデター実行の恐れがあることや、軍の装備などが細かく報告されていた。
薄氏はもはや袋のネズミ状態だったわけで、3月初旬、全国人民代表大会(全人代)に出席するため、何食わぬ顔で北京入りした薄氏が身柄を拘束されたのは当然だった。
薄氏を支持していた上海閥や次期最高指導者と目される習近平副主席が中心の太子党閥にとって、薄氏の身柄拘束は避けたかった。だが、王氏が米国総領事館に駆け込んだ際、持参していた機密書類が米政府に渡っており、「訪米していた習副主席に米政府高官から書類の存在が明かされたため、習副主席は薄氏を救うことを諦めざるを得なかった」と同筋は明らかにする。
●翻訳・構成/相馬勝
※SAPIO2012年5月9・16日号