「大往生したければ医療と深く関わるな」「がんで死ぬのがもっともよい」。そんな主張をする医師が京都にいる。京都の社会福祉法人老人ホーム「同和園」の常勤医を務める中村仁一氏だ。これまで数百例の自然死のお年寄りを見送ってきた中村氏から、老人医療の問題点、これからの日本人か持つべき死生観について聞いた。(聞き書き=ノンフィクション・ライター神田憲行)
* * *
私は自分が意識不明になったり判断力が鈍くなったときのために、胃瘻(いろう)などの延命措置を一切拒否する事前指示書を作成してあります。これは家族が決断を下さなくてはならなくなったときに、いく分でも精神的負担を減らしたいためです。いわば“思いやり”プレゼントです。
しかし日本では法的効力はありませんし、何が何でも思い通りにしたいと思っているわけではありません。もともと死は「苦」(ドゥフカ=サンスクリット語)で思い通りになるものではないと思っているからです。
「救急車は呼ばない、乗らない、入院しない」が私のモットーですが、もし町なかで昏倒すれば、救急車に乗せられて集中治療室に収容されてしまう。それはそれで仕方ありません。すべて、そのときの「縁」「巡り合わせ」ですから。
ただ、可能なら長く生きた知恵を活かして上手に不自由さとつき合ったり、自然に穏やかに死んでいく姿を見せたいものとは考えています。
これは「老いる姿」「死にゆく姿(最高の“遺産”)」を次世代に伝えることが年寄りに課せられた最後の大事な役割と思うからです。これまで私は自分の死生観を他人に押しつけたことはありません。ときになかなか死ぬことを考えたがらない親に考えて貰うにはどうしたらいいか、相談されることがあります。そのときには自分は変わることができても、他人を変えることはムリと答えています。
たとえば、水を呑みたがらない馬にムリに呑ませようとして川べりに引っ張っていって、たとえ顔を水の中に押し込んだとしても、その気のない馬は決して水を呑みません。それと同じというわけです。
しかしだから、そのまま成り行き任せというわけにもいきません。やれることはやりましょう。それには二つあります。
一つは「余命6ヵ月といわれたら」エクササイズです。もし今、親が余命6ヵ月と告げられたら、何をしてやりたいかを列挙して優先順位をつけ、実行することです。そして、これを毎年続けることです。あるいは「お通夜」エクササイズ、「こんなことだったら」エクササイズです。
よく通夜の席で「こんなことになるんだったら、もっとこうしておいてやるんだった、ああしておくべきだった」という後悔の言葉を耳にします。これを列挙しようというわけです。たとえば1週間のヨーロッパ旅行に連れて行きたかった、でも今は金と暇がないというなら、一泊の温泉旅行でもいいんです。繁殖を終えた親に対しては、その日まで、これを続けましょう。
これをしておかないから、まだ先と思っていた親がある日突然、もうそろそろといわれると延命に走ってしまうのです。親にしてみれば延命されても少しも嬉しくも有り難くもないはずです。
もう一つは、親の死生観について探りを入れるてみることです。テレビドラマの死の場面や有名人の死の報道にかこつけていろいろ聞いてみることです。機会あるごとにこれらを積み重ね、真意を把握することに努めましょう。
いまサプリメントや健康食品が凄い売れ行きのようです。これは「いつまでも若く元気で、ぽっくり死んで、長い期間私たちに介護の面倒をかけるようなことはしないでね」という無言の凄い「若さ圧力」「健康圧力」が年寄りにかかっているせいなんですね。今の年寄りは本当に可哀想なんですよ。
最後に繰り返しますが、医療は「老い」と「死」には無力なんです。どんな先端医療といい再生医療といっても、所詮「老いて死ぬ」という枠内での話なんです。ですから、年寄りは、あまり近づかない方が賢明だと思います。
人は生きてきたように死ぬのです。今日は昨日の続きです。昨日と全く違う今日はあり得ません。つまり、今までいい加減に生きてきた人間が、死ぬときだけきちんと、というわけにはいかないということです。結局、大事なのは「今」なんです。今どういう生き方をしているか。どう周囲とかかわっているか。どう医療を利用しているかが、「死」の場面に反映されるんです。
繁殖を終えたら、「死を視野」に日常を点検、修正しながらその日まで生きるということでしょう。(終わり)
【中村仁一氏プロフィール】
1940年、長野県生まれ。京都にある社会福祉法人老人ホーム「同和園」付属診療所所長、医師。京大医学部卒。財団法人高雄病院院長、理事長を経て、2000年2月より現職。著書に「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)などがある。