これまで自身のブログで、不妊治療、出産、愛息の闘病の様子などを次々と公開してきた野田聖子議員が、先日のブログで綴ったのが、母親の病状についてだった。国会議員という仕事を続けながらの入院中の息子の看病に加え、51才の彼女は新たな問題に直面することとなった。
野田氏は、製鉄会社勤務の父と弘子さんの間に3人きょうだいの長女として生まれた。東京の超高級住宅街・田園調布で育った彼女は、10代後半でアメリカに留学をする。だが、そのころから両親は不仲になり、野田氏の留学中に、父親が自宅を出て行ってしまう。こうした事態に、弘子さんは精神的に不安定になってしまい、自殺寸前にまで追い込まれたという。2010年7月号の『新潮45』で、野田氏はこのとき母の傍にいなかった後悔を明かしている。
<一番悲惨なときに私がいなかったと事あるごとに責める。それが胸に突き刺さるんです>
だが女手ひとつで弘子さんは、娘を支え続けた。1987年、ホテルマンから政界へ転身した野田氏の選挙を応援するため、岐阜の選挙区を足繁く回った。岐阜には野田氏の父の実家があり、野田氏は出馬にあたって、父方の祖父の養子となっている。そんな娘のために、弘子さんは一緒に岐阜まで行って選挙戦を手伝ったという。
「『野田聖子 母 弘子』という名刺を作り、3万軒を訪ね歩いたそうです。時には土下座をしてお願いすることもありました」(政治関係者)
そんな母親への感謝と、自分がいないことでもう二度と寂しい思いをさせたくないという思いからだろう、2年前に、自分が住む都心のマンションの隣りの部屋を弘子さんのために購入。母を呼び寄せて現在は隣り同士で暮らしている。
自宅周辺では、ふたりで仲よく出かける野田氏と弘子さんの姿がよく目撃されていた。
はたから見たら仲よし親子だが、実際には、弘子さんには老人性うつの症状が進行していたのだった。
4月下旬に、野田氏が知人と食事をした際、たまたま弘子さんも同席したことがあった。
「お母さんは、“子供のときの娘は、色黒でおてんばだった”なんて話を何度も繰り返していたそうです。同席した人たちは、あれっと思ったそうですが、野田さんに何も聞くことができなかったようです。野田さん自身も、お母さんの言動について何も話そうとはしなかったそうです」(前出・政治関係者)
※女性セブン2012年5月24日号