日本のプロレス界に大いなる足跡を遺した巨人・ジャイアント馬場(本名、馬場正平)。1999年に亡くなったが依然としてその人気は衰えることはない。ここでは、DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第1巻(小学館)より、馬場さんがプロレス入りする以前、野球選手時代のエピソードを紹介する。
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三条実業高校(新潟県)に入学した正平は、美術部に入部した。野球をやりたかったのだが大足に合うスパイクシューズがなく、野球の次に好きだった絵を描く道を選んだのだ。だが馬場の素質を惜しんだ野球部長が、2年進級時に特注のスパイクを作ってくれ、馬場は晴れて硬式ボールを手にしたのだった。
エースとなった馬場は、野球部創設以来の7連勝無敗を記録、「新潟に巨漢投手、馬場あり」と全国に名を轟かせた。だが夏の全国高校野球大会は、予選1回戦で長岡工業高校に0対1で敗れ、甲子園への夢は絶たれた。「来年こそ」と気を取り直した馬場に飛び込んできたのは、巨人軍スカウトからの「契約金20万円、初任給1万2000円」という入団勧誘だった。馬場は一も二もなく、高校2年で中退、入団することを決意した。
生まれて初めて手にした大金20万円は母に渡し、母がその金で買ってくれたオーバーを学生服の上に着て、馬場は昭和30年1月末に単身上京、少年時代からの憧れだったジャイアンツのユニフォームに袖を通した。背番号は『59』。馬場はこれを「剛球だからだ」と勝手に解釈した。
当時の巨人軍の春のキャンプは毎年、兵庫県明石市で行われていた。これに球界最年少で参加した馬場は、ある日、先輩の千葉茂二塁手に連れられて、明石在住の実業家で巨人軍の後援者だった伊藤悌(やすし)氏の自宅で食事をご馳走になった。
玄関先には特大のスリッパがあって、「ほら、元子ちゃんがお前のために特別に用意してくれたんだ」と千葉先輩に言われ、馬場は生まれて初めて自分の足に合うスリッパを履いた。
のちの元子夫人は当時中学3年生。大感激した馬場は元子さんに頼んでスリッパをもらって帰り、巨人軍の合宿所でボロボロになるまで履いた。馬場が礼状を出し、ふたりの文通が始まった。17歳の馬場の、淡い初恋だった。
入団した昭和30年は基礎体力作りに終わったが、翌31年から馬場投手の活躍が始まった。この年、2軍リーグ戦12勝1敗で最優秀投手賞を受賞、翌32年も13勝2敗で2年連続最優秀投手となった。32年のシーズン後半には1軍の公式戦にも登板、3試合に出場して7イニングを投げ、失点は1、防御率は1.29だった。この防御率は当時の巨人軍エース藤田元司投手を上回った。
だが巨人軍が日本シリーズに突入したころ、馬場の体に異変が起こった。視界がかすみ、キャッチャーがボヤケて見えていたのだ。合宿に近い病院では「ウチでは手に負えない」と東京・飯田橋の警察病院を紹介され、そこでは「このままでは失明してしまう」と言われた。病名は脳腫瘍で場所が悪く、手術しても成功率は1%と宣告されたのである。
馬場は藁をもつかむ思いで東大病院の清水健太郎博士を訪ね、1%の可能性にかけた。手術は成功、しかも「生命が助かっても、1年半から2年の入院生活が必要」と言われていたのに、僅か1週間で退院し、病院側を「奇跡だ」と驚かせたのだ。
昭和33年のシーズンも無事に迎えられ、前年の実績もあって馬場は、「今年こそ1軍だ」と張り切ったが、巨人軍の話題は入団した長嶋茂雄三塁手が一手にさらい、馬場は忘れられた存在となってしまった。2軍戦では10連勝をマークし、3年連続最優秀投手となったが、1軍からのお呼びはなし。34年には王貞治選手が入団、巨人軍の人気はピークを迎えた。このシーズンも2軍のエースで終わった馬場に待っていたのは、オフに入っての戦力外通告だった。だが馬場は、「あっ、やっぱりな」という感覚で受け止めた。
文■菊池孝
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第1巻(小学館)より