【書評】『隠居志願』(玉村豊男/東京書籍/1470円)
【評者】嵐山光三郎(作家)
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超人タマムラは長野の里山に漂着したアルチュール・ランボーである。あるいはワイナリーを設立した陶淵明であって、農園で野菜を育てて、カッコウの声を聞き、花と語り、犬と遊ぶ。移ろいゆく日々の記録を細密な絵と簡潔な文でつづった一冊は、読む人を静かな仙境へ誘いこむ。
欧州から中東を流浪して得た博を駆使して、ひと月に30本もの連載をかかえ、「雑文王」と名乗っていたのは30年前のことだった。数え42歳のときに吐血して、療養生活をしてから改心し、隠遁生活に入った。隠遁しつつも自給自足農夫の道を歩み、カフェレストランをオープンして、優雅なる日々をおくっている。
いまは、ポケットに手を突っこんだまま階段を下りないように注意している。歳をとったのだ。熟成する66歳である。
各章に添えられた野菜や果物や草花の絵がリアルで、乾燥させたザクロ、ネギ、野いばら、フキノトウなど53点が、精密な植物図鑑のように示されている。絵を描きはじめたのは療養中のベッドだというが、父は日本画家の玉村方久斗である。
フキノトウの項には、味噌を酒で溶いてフキノトウを刻みこみ、板きれに塗りつけて直火で焼き、その間に、酒の燗をつけておく、なんて話が出てくる。健全なる農夫は食い意地がはっている。
自宅にはカメムシ箱がある。カメムシを見つけると静かに箱を近づけて、紙片の先でゆっくりと中に追いこんで蓋をしめ、雑木林のなかへ逃してやる。そうすると、カメムシは異臭を出さない。なにごとも事を荒だてず穏便に運び、波風をたてないように収束する。
人生で自分がやるべきことの大半はやったと感じている隠居志願でありながら、筋力トレーニングをはじめた。このまま90歳ぐらいまではムキムキ筋肉マンとして生きそうである。
頭髪が薄くなっても、みがけば光るハゲのダンディズムを見よ。老いていく日々にこそ、人間が到達する理想郷があるのです。
※週刊ポスト2012年5月25日号