歴史はライバルたちの激突で紡がれる。1921年の結成以来、中国共産党内部では激しい権力闘争が繰り返されてきた。表向きは路線対立という形を取っていても、その背後には憎悪、嫉妬、猜疑心など様々な人間的感情が渦巻いている。代表的な闘争として「毛沢東vs劉少奇」のケースを取り上げる。
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中国共産党の歴史の中で最も激しい権力闘争が行なわれたのは、党の中枢から末端までで、数百万人から1000万人以上の死者・行方不明者を出したとも推定されている文化大革命の最中である。
毛沢東は、1958年に自らが発動した農工業の大増産を目指す大躍進政策の大失敗が明らかになると(最終的に数千万人の餓死者が出たと見られている)、党のトップである中央委員会主席の座にはとどまったものの、実権を失った。代わって、1959年に毛から後継者に指名されて国家主席の座を譲り受けた劉少奇や、党中央委員会総書記のトウ小平らが中心となり、経済の立て直しを図った。
毛沢東は1962年には大躍進政策の失敗に対する自己批判もしている。だが、劉少奇らの権力が強まり、いずれフルシチョフに批判されたスターリンのごとく自分も否定されることを恐れ、反撃を開始した。最初は「修正主義」批判という理論闘争の形を取り、次には「党内の資本主義の道を歩む実権派」を打倒すると公言した。公に名指しはしないものの、「実権派」が劉少奇らを指すことは明らかだった。劉に対して「俺が小指1本動かせば、お前など打倒できる」と面と向かって恫喝したことがある。実権を失ってはいても、毛の格は他の誰よりも明らかに上だった。毛は「実権派」に対し、理論的に追い詰め、不意打ちするように次々と失脚させ、その一方、一般の若者に「造反有理」をけしかけた。毛は抜きん出たカリスマ性を持つ天才的扇動家だったのだ。
当初、毛沢東の真意がつかめなかった劉少奇はずるずると後退せざるを得なかった。これに限らず、毛は真意を明確にせずに相手を批判し、相手を不安に陥れて追い込むという手法を頻繁に使った。こうして外堀を埋めてから、毛沢東は一気に勝負に出た。
1966年8月に開かれた党中央委員会総会で「プロレタリア文化大革命」を党として宣言させ、総会の期間中、「司令部を砲撃せよ私の大字報」と題した、「実権派」の党幹部打倒を指示する文書を発表したのである。
劉少奇は自己批判を余儀なくされた。そして、毛沢東の一存で党内序列が書き換えられ、劉は毛に次ぐ2位から8位に落とされた。国家主席の座にとどまったものの、名目にすぎなかった。
劉少奇との権力闘争に完勝した毛沢東は、「文化大革命祝賀大会」を天安門広場で開いた。天安門の楼閣上に立ち、学生によって組織された紅衛兵ら全国各地から集まった大衆に接見するというものだ。これを機に文革の狂気が全土に広まっていった。
毛沢東の恨みは深く、失脚以降の劉少奇は残酷な仕打ちを受け続けた。軟禁されていた自宅には紅衛兵らがたびたび押し入り、批判の文書を壁に貼り、劉を口汚く罵り、暴力的に吊るし上げた。劉は散髪も入浴も許されず、病に伏せてさえ治療を受けられなかった。
そして危篤に陥るが、この時は党中央がすぐに治療を行ない、一命を取り留める。「四人組」のひとりで、毛の夫人である江青の「生きている間に劉を党から除名して恥辱にまみれさせよ」という意向があったからだ。
1968年10月、劉は正式に党から除名されるが、その際、「裏切り者、敵の回し者、労働貴族」「帝国主義、現代修正主義、国民党反動派の手先」など、あらゆるレッテルを貼られた。除名は劉の誕生日(11月24日)にラジオで放送され、劉はそれを聞くよう強制された。
こうした“虐待”の末、69年11月12日、劉少奇は肺炎がぶり返し、非業の死を遂げた。満71歳になる直前だった。かつては国家主席を務めたにもかかわらず、偽名で、「無職」の老人として埋葬され、その死は、当初、家族にも知らされなかった。
※SAPIO2012年6月6日号