第一報は読売新聞が5月29日付朝刊1面トップで、
〈中国書記官 スパイ活動か〉
――と報じた。中国大使館の一等書記官が外国人登録証明書を不正に使って銀行口座を開設し、ウィーン条約で禁じられた商業活動をしていた疑いがあり、警視庁公安部が5月中旬に外務省を通じて中国大使館に書記官の出頭を要請したが、すでに中国に帰国したという内容だ。報じられた内容のほとんどが、「警察当局」「政府関係者」発の情報である。
スパイ活動を行なっていたとされる一等書記官は、1989年に人民解放軍の外国語学校を卒業し、軍総参謀部所属。1993年に日中友好協会の国際協力員として来日。1995年から2年間、福島大学大学院に留学した後、1999年から松下政経塾の海外インターン、2003年から4年間は東京大学東洋文化研究所の研究員、2007年7月から中国大使館の一等書記官を務めていたとされる。
他の新聞・テレビも「政財界に接近」(朝日新聞)などと後追いし、TBSは「帰国前日の姿」とモザイク入りの本人映像を流すなど、典型的な当局によるリーク報道の展開を辿った。
しかも、事件はその日のうちに野田政権スキャンダルへと急転する。
永田町には、件の一等書記官が鹿野道彦・農水相や筒井信隆・副大臣が進める中国への農産物輸出事業に関与していたという情報が流れ、与野党の有力議員が、「野田政権の命取りになる」と口にした。
その予告通り、読売や産経は翌30日付で、〈書記官、農水機密に接触〉などと報道。鹿野氏は省内に調査チームを設置し、自民党と公明党は早速、幹事長会談を開いて鹿野大臣らを問責決議などで追及する方針を決めた。あれよあれよという間に政権を揺るがす疑惑へと広がっていったのである。
しかし、この事件には奇妙な点が多い。まず「スパイ事件」と報じられているものの、どんな国家機密が漏洩したかがはっきりしないことだ。読売は、農水省が最も高い「機密性3」に指定した〈原発事故の影響を受けた国内のコメの需給見通しに関する文書〉などが漏れた疑いを報じているが、そんなものは国内外に公表すべきで機密指定するようなものではない。それを知りたくてスパイ活動するマヌケな外交官などいないだろう。
書記官が人民解放軍総参謀部所属のスパイだとすれば、当然、軍事情報の収集が任務のはずだ。しかし、本人をよく知る軍事評論家の潮匡人氏は疑問を呈する。
「7~8年前に日中安保対話のシンポジウムで彼が通訳をしていたときに紹介され、その後、毎年のように会っていた。彼は安全保障に強いシンクタンクを通じて日本の弾道ミサイルの専門家や自衛隊元幹部などの信用を得ていたから、本当に軍事機密を狙う大物スパイであれば有益な情報を引っぱろうと画策したはずです。しかし、私の知る限り、日本側で彼と専門的な話をした者はいない。もっぱら経済や商売の話でした」
その証言から浮かぶ姿は、違法な小遣い稼ぎをした小物外交官という印象だ。問題とされた口座も、後に「個人のカネを蓄えていたもの」と一気にトーンダウンした“当局情報”が報じられている。
※週刊ポスト2012年6月15日号