【書評】『翻訳に遊ぶ』(木村榮一/岩波書店/2520円)
【評者】坪内祐三(評論家)
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木村榮一と言えばバルガス=リョサの『緑の家』やカルロス・フエンテスの『アルテミオ・クルスの死』やフリオ・コルタサルの『遊戯の終り』などの翻訳で知られるラテンアメリカ文学の大御所だ。その木村榮一の『翻訳に遊ぶ』は知的自叙伝だが、これが面白い。翻訳家になってからも面白いが、なるまでが目茶苦茶面白い。
父親の方針で木村氏は不良中学に進学するが、相撲の強かった彼は番長グループから目をつけられる。だから、「学校へ行くのが嫌で仕方なかった」。そんなある日、ささいなことでグループの一人と口論になり、家に逃げ帰り、台所の隅でうずくまっていた。
すると、その姿を見つけた父が、どうしたんだと尋ね、事情を説明したら、黙って台所にあった包丁をつかみ、木村少年に手渡して、これで刺してこい、と言った。震えあがった少年が、そんなことしたら警察に捕まるよ、と言ったら、父は、わしが身請けしてやると答えた。
神戸市外国語大学のイスパニア学科に入学出来たのも父のおかげだった。入学した高校は典型的な落ちこぼれ高校で大学進学率も低かった。木村青年も受験した大学にことごとく落ちた。最後に残っていたのが神戸市外国語大学だが、自信がなかったので、浪人することに決めていた。すると父は言った。「ばかだなあ、人生と同じで、受験なんていうのは運だ。運さえ良ければ、通ることだってある」。
そうして、だめもとで受けたら合格した。うれしさに舞い上った木村青年が早速高校の受験指導の先生の所に報告に行ったら、先生は、がくっとうなだれて、黙り込んでしまった。そして口をついて出た言葉は、「ついていけるかなあ」、だった。
この言葉はこたえたが、青年は、待てよ、と思った。自分が入ったのは<イスパニア学科>で、皆ゼロからのスタートだ。努力次第で何とかなるかもしれない。その「努力」がこのあと語られて行く。
※週刊ポスト2012年6月15日号