190cmの長身から投げ下ろす150kmを超えるストレート。新垣渚は、同い年の和田毅、杉内俊哉とともにソフトバンクを背負って立つ存在として将来を嘱望された。しかし、2人が順調にエースの階段を上り続ける一方、新垣は「暴投王」の烙印を押され、一軍マウンドから離れていった――。
そして和田と杉内がチームを離れた今年、新垣は再びエースとして戻ってきた。一度も勝てなかった3年間の苦悩、そして同期に置き去りにされる恐怖と焦り。地獄を見た男が復活劇の裏側を明かす。
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剛速球で甲子園を沸かせた男は、32歳を迎え、投球スタイルを大きく変えた。今季4年ぶりの復活を遂げ、その後もローテーションを守り続けているソフトバンクの新垣渚に、「150kmへのこだわり」を訊くと、ハッキリこう答えた。
「ないっすね。まぐれで出てくれればいいかな(笑い)。スコアボードの球速表示も一切見ないようにしているんです」
4月1日、新垣は福岡ヤフードームでのオリックス戦のマウンドにいた。1058日ぶりの一軍登板である。7回まで「0」を重ねての8回無死二、三塁、一打出れば同点のピンチ。ここで投手コーチの高山郁夫が声をかけた。
「渚、いいよ、ランナー全部還しちゃえよ」
これで開き直れた新垣は後続を断ち、1273日ぶりの勝利を収める。試合後のお立ち台では、人目を憚らず涙した。この日の深夜、新垣の携帯電話に「2勝目に繋がる大きな勝利、おめでとう」というメールが届いた。差出人は、同じ日に巨人移籍後の初勝利を挙げた、昨年までのチームメート・杉内俊哉だった。
1998年の夏の甲子園。沖縄水産の新垣は、当時の甲子園史上最速となる151kmをマークし、その名を轟かせた。
「あの151kmは、自分の中でもっと上を目指すきっかけになり、同時に引きずることにもなりました。ピッチングどうこうよりも、ずっと球の速さにこだわっていましたから」
この年の甲子園では、横浜(神奈川)の松坂大輔(現レッドソックス)に代表される「松坂世代」と呼ばれる好投手たちが躍動した。鹿児島実業の杉内、浜田(島根)の和田毅、そして新垣。高校卒業後は進学などで別々の道を歩んだ3人は、5年の時を経て同じダイエー(現ソフトバンク)の一員となった。新垣が当時を振り返る。
「和田は同期入団だし、1年先に入団していた(杉内)俊哉は甲子園でノーヒットノーランをやっていたので、インパクトは強かった。2歳年上の(斉藤)和巳さんを含めた3人に負けたくないという思いは、強く持っていました」
特に同い年の和田、杉内にライバル心を燃やした理由には、そのスタイルの違いもあったようだ。変化球でかわす技巧派の和田や杉内に対し、新垣は直球にこだわり続けた。
「僕は真っ直ぐでの勝負にこだわりたかった。真っ直ぐがあるからこそ変化球が生きるんだし、(2人のように)変化球に頼って勝つというのは嫌でした」
入団1年目に8勝、翌年は11勝。そこから3年連続二桁勝利を達成し、4年目の2006年には13勝を挙げた。和田、杉内も競うように勝ち星を挙げ、「この3人がいれば、ホークスは今後10年安泰」とさえいわれた。
順風満帆な投手人生を送る新垣に転機が訪れたのは2007年。投球の幅をもっと広げるために、新球「シュート」を覚えようと挑戦した。これが失敗だった。得意のスライダーまで曲がらなくなり、焦って余計に曲げようとしたため、今度は指に引っかかりすぎてしまう。
この年に記録した暴投25回(プロ野球記録)はこれが原因だった。勝ち星は減り、ついに2009年は未勝利。無理にシュートを投げ続けたことで右肩を痛め、一軍マウンドにも上がることができない日々を過ごした。
「自分のスタイルに不安を感じ、ものすごく迷っていました。今考えれば、真っ直ぐを中心にして、二桁勝利を3年間続けられたプライドも邪魔をしていたと思います。肩を痛めるまでは、まだ真っ直ぐにこだわり続けていましたから」
●永谷脩(スポーツライター)
※週刊ポスト2012年6月22日号