6月6日、三笠宮寛仁さま(享年66)が多臓器不全のために亡くなられた。寛仁さまのご遺体を棺に納める儀式「御舟入」が6月7日、赤坂御用地内にある寛仁親王邸で営まれ、続いて、皇族方がご遺体と対面される「拝訣」が行われた。この儀式には天皇皇后両陛下をはじめ、皇太子ご夫妻も参列され、最後の別れを惜しまれた。
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれた寛仁さまは、皇族の枠にとらわれず、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などのメディアに登場しては、“皇室のスポークスマン”として皇族の本音を国民に語られてこられた。
「皇籍離脱」発言や「がん」「アルコール依存症」の公表など、皇室のなかでは常に型破りで“異端児”的な存在だった。
そんな寛仁さまは1980年11月、8年越しの恋を実らせ、信子さま(57才)とご結婚。信子さまは麻生太郎元首相(71才)の実妹で、母方の祖父が故・吉田茂元首相という名家の出身。聖心女学院を経てイギリスのロスリンハウス・カレッジを卒業後、松濤幼稚園の英語講師を務められるなど当時は珍しいキャリアウーマンだった。
ご成婚の翌年に長女・彬子さま(30才)、1983年には次女・瑶子さま(28才)を授かられた。しかし、1990年暮れ、そんな幸せな日々に暗い影を落とすできごとが。寛仁さまに食道がんが見つかったのだ。すぐに手術を受けられるが、それと同時に信子さまの献身的な看病が始まった。
信子さまは「殿下のお体のことが私の仕事ですから」と周囲に語られる程尽くされた。
寛仁さまは亡くなるまでの約20年間で16回の手術をお受けになるが、実はその途中から信子さまの献身的なお姿は見られなくなっていった。
2004年4月、信子さまは胃潰瘍と更年期障害のため、軽井沢の姉の別荘で療養生活を送ることとなり、寛仁さまとの別居が始まったからだ。公には病気が理由だったが、実際には、このころからご夫婦の間には大きな溝ができていた。
「寛仁さまとはご病気の公表を巡って意見が対立したこともありました。さらに、信子さまは、ご自分が病気になられたことで、皇族としてのお立場に不安を抱かれたこともあり、そのような思いを巡って、夫婦間の衝突もあったそうです」(宮内庁関係者)
2年間の療養生活の末、2006年8月、寛仁親王邸に戻られた信子さまだったが、同じ家で暮らしながらも、おふたりが顔を合わせることはほとんどなかったという。2007年の歌会始で信子さまは、こんな歌を詠まれている。
澄みわたる月の光をあふぎみて今の世思ひ次の世を思ふ
一方の寛仁さまも2007年10月、『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューでこう語られた。
「家庭内では揉め事も多かった。26年間も連れ添っていればね」
信子さまは2007年12月からは気管支ぜんそくのため入退院を繰り返され、さらに2009年10月の退院後はご自宅には戻らず、皇居にほど近い旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活を送られ、いまに至っている。
前述した信子さまとのご夫婦の溝は最後まで埋まらず、信子さまは臨終にも立ち会われず、前出の「御舟入」「拝訣」にも参列されなかったという。喪主も長女の彬子さまになる。
ご夫婦関係に苦労される一方で伝統ある皇室を守るために腐心され、力尽きた寛仁さま。これからは天国で、未来の皇室を見守られることだろう。
※女性セブン2012年6月28日号