日本のプロレス界に大いなる足跡を遺した巨人・ジャイアント馬場(本名、馬場正平)。1999年に亡くなったが依然としてその人気は衰えることはない。ここでは、DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第2巻(小学館)より、ジャイアント馬場のプロレスデビュー当時のエピソードを紹介する。
* * *
地獄の練習を重ねて約半年。昭和35年9月30日の東京・台東体育館大会で、馬場は初マットを踏んだ。同時デビューの猪木は1年先輩の大木金太郎に7分16秒逆腕固めで敗れ、馬場は力道山の付き人頭でもあった桂浜(田中米太郎)に5分15秒股裂きでギブアップ勝ちを奪った。
その後、馬場は苦手だった芳の里を除く中堅・若手選手のほとんどに勝ち越すという好成績を上げ、デビュー1年足らずで初渡米武者修行に出されるという大抜擢を受けた。同行するのは6年先輩の芳の里と2年先輩のマンモス鈴木。力道山は、「お前は、アメリカに行ったら空手チョップを武器としろ」と伝家の宝刀の使用許可を馬場に与え、その右手を徹底的に鍛え上げた。力道山が空手チョップを直伝したのは、後にも先にも馬場だけである。
馬場は、巨人軍の契約金で母が買ってくれたオーバーを、弟分の猪木に置き土産として贈り、昭和36年7月1日、芳の里、鈴木とともに羽田空港を飛び立った。機中で芳の里に、「お前、ドルをいくら持ってきた?」と聞かれた馬場は、1ドルも持っていないと答えて呆れられた。
力道山から、「ロサンゼルスのグレート東郷にすべて任せてあるから、お前は身体だけを持っていけばいい」と言われた馬場は、それを真に受けて、1ドルの準備もしなかったのだ。
国賓待遇のVIPならいざ知らず、1ドルも持たずに渡米した大人など、馬場ぐらいのものだろう。馬場はまだまだ世故にうとかったのである。ロサンゼルスで待っていたのは、案の定、小遣い銭にも苦労する赤貧生活だった。
文■菊池孝
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第2巻より