〈十年をひとむかしと云うならば、この島にまつわる物語の発端は、今から十もむかしのことになる〉……。
映画ファンならお気づきだろうか。昭和29年の木下惠介監督作品『二十四の瞳』(壺井栄原作)の冒頭では、この「十」が「ふた昔もまえ」だった。小豆島の分教場に赴任した「おなご先生」高峰秀子演じる大石久子と12名の教え子が時代の荒波に呑まれてゆく様はかつて日本中の涙を誘い、その映像美にこめられた愛と反戦の祈りを、樋口毅宏氏(41)は新作小説『二十五の瞳』として現代に蘇らせる。
第一話では平成、第二話では小豆島ロケが行われた昭和20年代、第三話では孤高の歌人・尾崎放哉が生きた大正、表題作では明治を舞台とし、島とこの国の近現代史が今一人の主役だ。そして序章と終章に自らの離婚経緯を綴る樋口氏自身、震災後を生きる生身の作家として重要な役割を担う。人が生きとし生ける限り繰り返される悲劇や別れ、ひいては歴史を、新たな物語をもって更新するために。
樋口氏は語る。
「今年リングスを再始動した前田日明が『未来は過去を変えられる。志をもった人間の努力によっていくらでも書き換えられるのだ』と宣言して、本当にその通りだと思ったんですよね。
例えば僕は宮本武蔵より吉川英治を偉いと思う人間で、実在する大人物より後世の語り部のほうが重要だと考えています。同時に僕には文学にヒップホップの方法論を持ち込み、既存の物語からより面白い物語を再構成する自信がある。同じ年に封切られた『七人の侍』(3位)を抑えてキネ旬ベストワンに輝いた名作が今はほとんど語られていないわけですから、敬愛するデコちゃんのためにも一肌脱ごうと」
震災直後、東京を脱出した樋口氏はデビュー以来ぎくしゃくしていた妻を連れて西へ逃げ、ふと訪れたのが『二十四の瞳』の里・小豆島だ。その旅で妻との溝は一層深まったが、一方で小説は生まれた。
「映画のロケ地や、この島に流れてきて〈咳をしてもひとり〉と詠んだ放哉の庵を回るうち、四つの物語が大方出来ていた。もっとも小説なんか書かなくたって、一生伴侶といる方が、ずっと幸せです……」
本書を貫くテーマも全て別れだ。第一話「あらかじめ失われた恋人たち」では知性と美貌で人気のキャスター、その名も大石久子が、学生時代の恋人で小豆島を買収した中国IT界の大物〈宋永漢〉と取材で再会、オリーブの産地であるこの島を〈脱石油文明〉の拠点にしたいと熱く語った彼の夢の挫折と別れを描く。
彼らは見てしまったのだ、この島に棲む〈緑色の怪物〉を――。〈ニジコ〉と呼ばれる魔物を見た恋人たちは、第二話「『二十四の瞳』殺人事件」の中で大石久子を演じる人気女優〈愛子〉と、『七人の侍』の撮影を抜け出した新進監督〈アキヤ〉(!)にしても、別れる運命にあるのだ。それにしてもなぜ小説の中の恋は、多くの場合失われてしまうのか?
「やはり人はハッピーな恋より悲恋に心を動かされるものだし、どんな愛もいつかは終わる。永遠なんてありえないとわかっているからではないでしょうか。僕が離婚のことを書いたのも、これだけ人の別れを書いて自分が血を流さないのはフェアじゃないと思ったから。
シェイクスピアは『オセロ』で嫉妬を緑目の怪物に喩えましたが、僕自身がそれを見たし、目だけじゃなく全身緑色の魔物を、誰もが自分の中に飼っている。だから別れは繰り返され、愛は終わってしまうんだってことを、僕も認めるのは本当につらかったけど、書くしかなかったんです」
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2012年6月29日号