熊本の医師・原田正純さんが6月11日、77才でその生涯を終えた。水俣病研究の第一人者として知られる原田さんは、常に患者の思いや立場を考え、裁判では国・企業を相手に真っ向から闘ってきた。病床でも、昏睡状態から目を覚ますたび、「水俣に行きたい」とつぶやいていたという。
発生当初から水俣病の取材を続けてきた作家の石牟礼道子さん(85才)は、当時、水俣の漁村でよく原田さんの姿を見かけたという。
「先生が集団検診に水俣に来られたときに、子供たちと遊んでいる姿を見ました。検診の最中も白衣に子供たちがしがみついて、まるで猫の子が甘えて人間のそばに寄ってくるような感じ。“うわー、よか先生”と思いました」(石牟礼さん)
原田さんはある日、漁村での診察を終えた帰り道で、水俣病の症状がみられる幼い兄弟に出会う。しかし、兄弟の母親と話していると、兄は水俣病だが、弟は違うと診断されたという。「上の子は魚を食べたが、下の子はお腹の中にいたので魚を食べていない」からだと。続けて、母親は原田さんに真剣な表情で訴えた。
「でも、下の子も本当は水俣病だと思う。お腹の中にいるとき、私がいっぱい魚を食べたからいけんのよ。胎内にいたこの子が水銀を吸い取った。だから私の症状は軽いとよ」
毒物は胎盤を通らないという当時の医学の常識からいえば、母の話は笑い飛ばされてしまうような“素人の発想”。だが、原田さんの心の中で何かがひっかかった。
周辺地域の患者たちをくまなく歩いて調べると、同じような症状の子供が多く生まれていた。全員の症状を細かく分析し、ある共通項を発見。そして、母親の魚介摂取でお腹の子供が発症する「胎児性水俣病」を世界で初めて発見し、1968年に論文を発表した。
このとき、原田さんは28才。水俣病研究の新境地を切り開く“世紀の発見”だった。
「いちばんの専門家は、医者じゃなくて患者さんだよ」
以来、原田さんは折に触れてこう口にするようになったという。6月14日、原田さんの「お別れ会」がしめやかに営まれた。
「お金を渡して終わりじゃない」
政府は68年に、ようやく水俣病を公害と認定した。その後、水俣病患者と支援者らが次々と裁判を起こし、有機水銀を水俣の海に垂れ流した熊本市内の化学工業会社「チッソ」は、被害者3000人に多額の補償金を支払うことになった。
1973年の患者側勝訴によって世の中には、「水俣病の問題はもう終わった」という空気も流れたが、原田さんは闘いを続けた。水俣病患者の支援を通じて親交があった評論家の佐高信さん(67才)がいう。
「“お金を渡して終わりじゃないでしょう”、原田さんはそう繰り返し口にしていましたね。
というのも、水俣病被害があった不知火海岸には当時約20万人の人が住んでいた。しかし、当初認定されたのは3000人だけ。“被害の全容も解明していないのに、何が解決だ”と。これから先、患者さんがどう生きるかの自立支援も不足していると嘆いていました」
※女性セブン2012年7月5日号