元日本テレビアナウンサーの徳光和夫氏。1963年にアナウンサーとして日本テレビに入社すると、野球中継の実況担当を希望したが、配属されたのはプロレス班だった。落胆した徳光氏に新たな希望を与えたものは故・ジャイアント馬場の存在だった。徳光氏自身が振り返る。
* * *
長嶋(茂雄)さんの一挙手一投足を自分の口で語りたいと思っていたので、「プロレスをやれ」と言われたときはショックでしたね。当時は野球と大相撲がスポーツアナの王道でした。次がボクシング。プロレスはプロ野球中継と肩を並べる視聴率を記録していましたが、実況アナは佐土一正さんと清水一郎さんのふたりしかいなかったんです。
そういう状況で私が配属されたのですが、いざ現場に入ってみると、清水さんが実に洗練された方で、流行りの横文字や新しいフレーズをどんどん実況に取り入れるんですよ。たとえば、6人タッグマッチに登場したトリオのことを「トロイカ方式」と表現してみたり、フレッド・ブラッシーの入場シーンでは「ブルーのスパンコールに身を包み……」と言ってみたり。プロレスって言葉遊びができるんだと思いました。
それとやっぱり馬場さんの存在ですね。力道山が1963年の12月に亡くなったことを受けて、馬場さんがアメリカから戻ってきたんですが、のちに直接うかがったところによると、海外修行は相当つらかったようですね。帰りの飛行機代も持たずに片道切符で海を渡り、厳しい練習に耐えながら車で各地を転戦する。
馬場さんが仰ってましたよ。「アメリカの道を車で走っていると涙がこぼれてくるんだけど、そのときにラジオから坂本九ちゃんの『上を向いて歩こう』が流れてくると、涙が止まるんだよ」って。そもそも馬場さんはプロ野球で大成できずにプロレス界に入ってきたわけですが、私はそんな馬場さんに悲壮感を抱いていました。しかし、帰国した馬場さん自身は、悲壮感を完全に整理してましたよね。
私は帰国直後、蔵前国技館で行われたカリプス・ハリケーン戦を実況しましたが、もし、馬場さんがアメリカでのつらい思い出を引きずったまま、悲壮感を漂わせるような試合をしていたら、たぶんアナウンサーをやめるか、転籍願いを出していたと思います。
しかし、馬場さんは自分の大きな体を思いきりよく使っていた。トップロープをまたいで入場したシーンなどは、実にかっこよかった。日本の小さいレスラーがアメリカの大男をやっつけるという、それまでのプロレスがガラリ一変しましたからね。
うれしいというより、何か不思議な感じでした。特にココナッツ・クラッシュ(ヤシの実割り)が印象的でしたね。ペドロ・モラレスあたりに仕掛けると、モラレスが2メートルぐらいポーンと吹っ飛ぶ。それによって馬場さんがより一層、大きく見えるんですよ。
私は野球の実況を希望しながらも、それがかなわずプロレスを担当するようになりました。そういう意味では馬場さんの境遇とよく似たドロップアウト組だったわけですが、馬場さんが悲壮感を漂わせることなく大きく羽ばたいたことによって、私の気持ちも切り替わりましたね。清水さんのようにいろんな言葉をちりばめながら、プロレスを魅力的に伝えていこうと。
取材・文/市瀬英俊
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第2巻(小学館)より