青森県の北東部、下北半島に位置する恐山。ここは、高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊山のひとつであり、死者への供養の場として知られる。
「恐山は怖いところだと思っている人が多いですが、初めて来た人は“懐かしくなるところですね”と声を揃えます」
こう語るのは恐山菩提寺の院代で、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)の著者でもある南直哉さん。182cmの長身で、全てを見透かすような鋭い眼光。弁舌の切れから“恐山の論僧”の異名も持つ南さんにズバリ、恐山とは何かを訊いてきた。
恐山といえば、死者の言葉を伝える“口寄せ”を行うイタコを思い浮かべる人も多いだろう。実際、参拝や観光ができる5~10月の開山期間の問い合わせは約9割がイタコ絡みだというが、寺は取り次ぎをしない。
「イタコと恐山菩提寺には何の関係もありません。雇いも契約もありません。イタコは個人のかたが家業でやっていて、大祭があると、いわば出張営業に来るわけです。言葉は悪いが、縁日の出店みたいなもの。われわれは集まって来るものを拒まないだけなのです」
また、ある新聞が行ったパワースポットのアンケートでは、1位の伊勢神宮に次ぎ、恐山は2位に選ばれた。ところが、南さんは「ここはパワースポットとは真逆のパワーレス・スポットですよ」といい切る。
「恐山が霊場であるのは、パワーがあるからではないんです。逆に、力も意味もないパワーレス・スポット、いわゆる巨大な空洞だからこそ、死者への感情を入れることができるのです」
恐山には供養の仕方や教義の決まりは一切ない。供養に来た人が自分の感情に任せて、自分の信仰を作っていくだけだ。この無こそが、1200年も霊場たり得た理由だという。
「普通は誰かがある場所に行くのは意味があるからだと考えますが、そうではない。意味を持ちこむために行く。発想が真逆なんです。供える相手がいるから供えるのではなく、死者を存在させるために供える。なぜそうするかというと、死者は生者にとってとても重要な他者だからです。生者は死者に拘束されているんです」
撮影■矢口和也
※女性セブン2012年7月12日号