世の中には様々な上司と部下の関係があるが、その中でも球界のこの2人こそ「日本一」と呼べるのではないだろうか。王貞治と小久保裕紀――。互いに高いプロ意識を持ち、球界内外で尊敬を集める野球人同士が、運命のもとに上司と部下となり、絶大な信頼関係を築きあげた。(文中敬称略)
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今季、満身創痍の小久保は、「(2000本安打という)目標が近くにあるから頑張れる」とキャンプでは新人時代と同様の調整を続けた。オフには、長年悩まされてきた首の痛みをとる手術を受けていた。開幕すると、稲葉篤紀(日ハム)、宮本慎也(ヤクルト)が次々に2000本安打を達成した。同年代に先を越される焦りもあった。
だが、大記録達成を目前にして開幕に臨んだ小久保には、秘かに思う「達成したい日」があった。交流戦の日程を調べて、王の誕生日(5月20日)が巨人戦であることを知り、「その日に2000本安打が打てれば、自分の体はどうなってもいい」とさえ思っていた。
が、その無理がたたった。持病の腰痛が悪化、ヘルニアと診断され、目標の日での達成は叶わなかった。記録達成まで「あと1本」と迫りながら、5月25日に登録が抹消された裏には、王への強い思いがあった。
およそ1か月、鍼治療とリハビリに取り組んだ末、腰は回復した。いや、本人が回復したつもりになっているだけかもしれない。直訴しての早期復帰だった。そして6月24日のヤフードーム――。
小久保が40歳8か月で達成したプロ野球2000本安打は、宮本の41歳5か月、落合博満の41歳4か月に次ぐ3番目の年長記録だった。名球会の仲間入りを果たした小久保は、胸を張ってこう語った。
「王会長には、逆境にあるときも、自分で道を切り開かないと前へは進めないということを教えていただきました。今の自分があるのはその教えのおかげです」
それは“息子”小久保が学んだ、“父”の教えといって差し支えあるまい。王は3女の父。王にとって、小久保は後を託せる息子のように思える存在なのかもしれない。上司として王は自らと同じ妥協を許さぬ姿勢を最愛の部下に感じとり、こう命じてきた。
「試合に出るからには必ず打て。打って結果を出せ」
そして、忠実な部下は見事その命令を全うした。
最愛の“孝行息子”が大記録を作ったその場にいられなかったことは、やはり残念ではなかったのか。
「いやいや、一世一代の晴れ舞台に、主役は1人で十分でしょう」
王はそういって笑う。ただ、こうつけ加えることも忘れなかった。
「今はまだ通過点。でも名球会のグリーンのブレザーだけは、ボクが自分の手で着せてあげたいね」
■スポーツライター・永谷脩
※週刊ポスト2012年7月13日号