世の中には様々な上司と部下の関係があるが、その中でも球界のこの2人こそ「日本一」と呼べるのではないだろうか。王貞治と小久保裕紀―。互いに高いプロ意識を持ち、球界内外で尊敬を集める野球人同士が、運命のもとに上司と部下となり、絶大な信頼関係を築きあげた。その背景には数々の秘話があった。(文中敬称略)
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球界で「師弟」と呼ばれる関係は珍しくない。仰木彬とイチロー、野村克也と古田敦也、長嶋茂雄と松井秀喜……。しかしその中でも、王と小久保の関係は別格といっていい。2人の出会いは1994年のオフにさかのぼる。1992年のバルセロナ五輪の日本代表に、大学生でただ1人選出された小久保は、翌1993年に主将として青山学院大を初の大学日本一に導き、秋のドラフトでダイエーから2位指名を受けた。
だがルーキー・イヤーの1994年は不本意な成績に終わる。78試合に出場したものの、打率・0.215、6本塁打。来季の活躍を目指して、小久保はオフにハワイで行なわれたウィンター・リーグに参加していた。そこへ、来季から新監督に就任する王が訪ねてきたのだ。同リーグの優勝決定戦で本塁打を放ってMVPに選ばれた小久保に、王は直接声をかけている。
「あの王さんがわざわざ来てくれて“君がチームの中心になって戦ってほしい”っていわれたんですよ。そりゃ感激しますよ」
当時、子供のようにはしゃいでいた小久保の姿を今でも思い出す。「世界の王が自分のところに来てくれた」という出来事は、若い小久保の心に鮮烈な記憶として刻まれた。
王と小久保に共通項があるとするならば、育ってきた境遇にあるのかもしれない。2人には、「親に迷惑をかけまい」と野球に打ち込んだ幼少期があった。王は、中華料理店を営む両親が忙しく働く姿を見て、手を煩わせまいと時間を過ごすなかで、野球に没頭していった。
一方の小久保は幼い時に両親が離婚し、母親の女手一つで育てられた。生活を支えるために働き続ける母親の負担を少しでも減らせるよう、中学時代から「県立の高校へ進み、高校卒業後は社会人のチームに入ってからプロを目指そう」と具体的な将来を描いていた。
「親の苦労」を知りながら育ち、野球で身を立てた者同士、惹かれ合う部分があったのだろうか。
小久保には、王という人間に理想の父親像を見ていたフシもある。王監督1年目の1995年シーズン、打撃6冠を独占しそうな勢いだったイチローから、唯一本塁打王のタイトルを奪取した際(小久保28本、イチロー25本)、小久保はこう王への思いを表現した。
「ずっと使い続けてくれたオヤジの顔を潰すわけにはいかなかった」
そこには、単なる上司と部下という関係を超越した、実の親子にも似た「信頼」が感じられた。
■スポーツライター・永谷脩
※週刊ポスト2012年7月13日号