西武ライオンズの前身・西鉄ライオンズで空前絶後の1シーズン42勝を挙げ、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた故・稲尾和久氏(享年70)。稲尾氏の背番号24は西武の永久欠番となり、7月1日の日本ハム戦、ならびに4日のソフトバンク戦では、西武の全選手が「24」をつけてプレー。
稲尾氏は1969年の引退直後、32歳の若さで西鉄の監督に就任。球団名が太平洋クラブライオンズに変更した後も含め、5年間指揮を取った。1978年から3年間は中日の投手コーチに。1984年からはロッテの監督になり、落合博満選手や村田兆治投手などの個性派をまとめ上げ、3年間で2位を2回記録している。
九州で生まれ育ち、プロでは福岡の平和台球場を本拠地とした西鉄の顔であった稲尾氏の経歴を見れば、ロッテの監督に就任したのは意外かもしれない。
当時のロッテは、超のつく不人気球団。本拠地の川崎球場には、数えられるほどの観客しか入らず、人気番組『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』(フジテレビ系)でも、観客席でキャッチボールをする人々や、いちゃつくアベックがたびたびネタにされていた。この状況にシビれを切らしていた球団は、福岡への移転を模索していた。そこで、福岡と縁の深い稲尾氏を招聘。稲尾氏は、ロッテとは別に、福岡へ球団を誘致する活動を行なっていたため、監督を引き受けることになったのだ。
稲尾氏は、著書『神様、仏様、稲尾様 私の履歴書』(日本経済新聞社)でこう振り返っている。
〈ロッテは本気で九州移転計画を考えていた。(中略)「実は再来年辺りに移転できないかと考えているんです」。もう昭和五十八年の十一月となり、五十九年の日程も組み上がる頃だった。来年は無理としても六十年には、というのだから、かなり煮詰まった話とみていい〉
結局、ロッテの移転は幻に終わり、1988(昭和63)年オフに南海を買収したダイエーが福岡に本拠地を構えることになったが、もしかしたら幻の「福岡ロッテオリオンズ」が誕生し、その監督に稲尾氏が就任していた可能性もあったのだ。