月に10個売れればよいほうだった1個5250円する電球に、震災後は半月で3000個もの注文が殺到した。加美電機の『レス球』だ。この電球に、いかにして爆発的な注目が集まったのか。作家で五感生活研究所の山下柚実氏が報告する。
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また暑い夏がやってくる。思い返せば昨年は、いきなり告知された「計画停電」に、オタオタさせられた。単三電池を買おうにも、売り切れ。非常用ラジオも懐中電灯も蝋燭も、我が家には無かった。停電になるとマンションの水道も止まる、と言われてパニックに。私のように大慌てした人、たくさんいたのではないだろうか。
東京の暮らしで、「停電」なんて死語だったからだ。東日本大震災、原発事故が起こるまでは……。
ある日を境に突然、別の世界が開ける商品もある。『レス球』は月に10個売れればよいほうで、鳴かず飛ばずの状態が続いていた。しかし、2011年3月11日を境に突然、「半月で3000個」もの注文が殺到した。製造する側は大慌て。在庫も部品もなくなり、一時生産中止せざるをえないほどの勢い。
『レス球』は一見するとただの電球だ。しかし、手にとると、すぐに違いがわかる。ずっしりと重たい。バッテリーやセンサーが内蔵されていて、突然の停電でも光り続けるのだ。
地震でガラスが割れたり、家具が倒れて部屋の中がメチャメチャになっても、天井に付いている。しかもプラスチック製だから壊れにくい。ソケットからはずせば、そのまま懐中電灯に早変わりする。
LED電球『レス球』はその名の通り、“レスキューグッズ”として大注目を集めた。でもまさか、日本で死語だった「停電」のリスクを予見していたのだろうか?
「たしかに発売当時、『日本には停電なんてないから新興国へ持っていったら?』と言われました」と、兵庫県多可町の加美電機・池田一一(かずいち)社長(68歳)は苦笑いする。
発売は2009年のこと。当時の日本は「停電」どころではなかった。煌々とライトアップされ、光の洪水のような街角。電気は使いたい放題。
ではそもそも「停電対策」として開発するきっかけはどこにあったのでしょう?
「17年前の阪神・淡路大震災です。未明に発生した地震で真っ暗になった。ぐしゃぐしゃになった部屋の中で身動きがとれずにとても困った、という声が、知人や取引先から聞こえてきたんです」
停電の時は家の中だけではなく、町ごと暗闇に沈む。「そんな時でも灯り続ける照明があれば」という池田社長の試行錯誤が始まった。
しかし、電子回路やプリント基板の実装を手がけてきた同社に、照明器具のノウハウは皆無。しかも、LED電球そのものがまだ存在していなかった時代。
「2003年頃、やっと白色LEDが市場に出てきたんです。それを電池と組み合わせるアイデアでしたが、当時は部品がとても高くて、1個8000円という値段にならざるをえませんでした」
神戸市で開かれた、地域の業者が集まる拡販相談会に持って行くと、冷たい反応が返ってきた。
「『そんな高い電球を誰が買うんだ、その金で懐中電灯を10個買えばいい』と大学教授に笑われてしまいました。隣で聞いていた震災体験者が、『いや、地震で停電したら大混乱になって懐中電灯は壊れるし、探し出すのも無理ですよ』と、実感から反論をしてくれたのですが、その教授はまったく聞く耳を持たなかったね」
頭ごなしの批判に腹が立った。1000個分の試作と部品をすべて廃棄処分にした。それから3年が経ち、LEDの価格が下がり、再びチャンスが巡ってきた。
「いったんは諦めた開発ですが、世の中に求められているという確信はあった。もう一度、やってみようと」
2009年、念願の商品化。価格も5000円台まで下げ、ネット通販で売り始めた。細々と直販していたところ、大地震が発生し、爆発的な注目がきたのである。
※SAPIO2012年7月18日号