〈「あっ、ナンシーが亡くなったよ」〉
2002年6月13日朝、横田増生氏(47)は新聞に突然の訃報を見つけて妻に言った。「えっ」ではなく「あっ」、「ナンシー関」ではなく「ナンシー」である。
生前、特に交流はない。にも拘わらず誰かの訃報を話題にしたのは、奇しくも昭和天皇以来だった。そのとき〈一つの時代の節目〉について友人と語り合ったという横田氏は、一面識もない先輩文筆家の個人史も含めた足跡を、何かに憑かれたようにたどり始める。
〈「今もナンシーが生きていたら……」〉〈取材中に、その言葉を何人から聞いたことだろう〉〈他の追随を許さない鋭い批評眼は、いかにして生まれたのか〉。その謎を解こうと全著作を読み返し、彼女を知る人に会える限り会った。その成果である『評伝 ナンシー関』の副題は、彼が出した一つの答えだろうか。〈心に一人のナンシーを〉。横田氏は語る。
「実を言うとこれは、雑誌『CREA』に連載されていた大月隆寛さんとの対談の中で彼がナンシーさんに言った言葉で、〈その言葉に私自身、とても賛成しているんです〉と、僕が本書で取材した一人、宮部みゆきさんはおっしゃっていた。
宮部さんはナンシー作品の〈自身を相対化〉する姿勢のおかげでご自分を見失わずに済んだと言い、彼女の本は全て持っているというファン。お忙しい中、僕の取材依頼を二つ返事で快諾して下さって、没後10年を経てなお〈その影響力〉を熱く語る人が多いことに、改めて驚かされました」
2002年6月11日夜、友人と中目黒の飲食店に〈新作の餃子〉を食べに行った後、帰りのタクシーの中で突然意識を失い、翌12日未明、そのまま帰らぬ人となったナンシー関こと本名・関直美。死因は虚血性心不全、享年39の早すぎる死だった。
『週刊朝日』や『週刊文春』の連載等で読者を魅了した人気コラムニストの魅力に本書では友人や仕事仲間の証言をもって迫り、何より彼女が遺した数々の作品を手掛かりに分析を試みる。
「僕はサブカルチャーにはトンと縁がなく、彼女のコラムも週刊誌の連載でやっと読み始めた、硬派というよりカタブツでした(笑い)。それこそ本を買うようになったのは彼女が亡くなってからで、二冊三冊と買っても飽きない面白さというか、彼女がダウンタウンを評した表現を借りれば“地肩の強さ”に俄然興味が湧いた。
そもそもテレビ評は〈生物(なまもの)〉を扱う以上、どんな優れた評論も1年経てば古くなる。ところが彼女の作品に限っては今読んでも新鮮で、つまり時代を切り取りつつ、時代以上の普遍的な何かを、毎週あの完成度の高い原稿に書きつけていたということ。その凄さは郷ひろみなら郷ひろみ、W杯ならW杯と、時系列に従って〈定点観測〉することでより際立ち、ある意味僕は熱心な読者ではなかったからこそ、この評伝を書けたのかもしれません」
2005年の『潜入ルポ アマゾン・ドット・コムの光と影』等で知られる横田氏は、いわば企業分析の正攻法で稀代の消しゴム版画家の実像に迫る。まずは年表を作り、故郷・青森での幼少期から上京後の浪人生活、そして法政大学中退後、伝説のライター事務所『シュワッチ』の一員となり、いとうせいこう氏命名によるナンシー関として活躍するまで、各時代を知る人々の証言をもとに行間を埋めてゆく。
「青森時代のキーワードとしては、(1)東京への憧れ、(2)雑誌『ビックリハウス』やムーンライダーズといったサブカルチャー、(3)毎回録音して7、8回は聴いていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』の三つがまずあり、それが物事を斜めもしくは裏から眺める姿勢に後々繋がって行く。
例えば作家のエッセイを読むと僕は正直つらくなる時があって、要はナルシスティックな自意識を読まされている気分になるんですね。その自意識が一方では小説を書く原動力になるわけですが、ナンシーさんの場合は自身を〈規格外〉と突き放すことでテレビ評を〈芸〉として極めた印象があり、だからこそ芸のない芸能人には厳しくもなった。それでいて本人は照れ屋で控えめな人だったと皆さん言っていて、ある編集者の〈含羞の人だった〉という言葉はまさに至言だと思う。
彼女が消しゴム版画家を名乗り続けたのも偉そうにコラムニストなんて言ってどうすると、あえて自分を面白可笑しい立場に置いたから。とにかく辛口評論家なんて典型や類型を超えた、もっと繊細で真摯な魂を、垣間見た思いがしました」
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2012年7月20・27日号