惨劇から4年が経った。加藤智大被告は2008年6月に東京・秋葉原で17人を殺傷(7人死亡、10人負傷)した罪に問われ、1審で死刑判決とされた。被告側は「死刑は重すぎる」と主張して控訴。だが第2審では姿を見せぬまま結審を迎え、判決は9月12日に下る。
アキバ系、ネット依存、派遣労働……。その因果関係を巡り様々な言葉が飛び交った事件はしかし、殺害動機すらはっきりせぬまま幕引きがなされようとしている。
なぜ加藤被告は「無差別殺人」という「狂気」を宿したのか。その心の闇を解く鍵が、加藤被告本人が拘置所で綴った獄中手記にあった――。
週刊ポスト取材班は加藤被告本人が事件の全貌とそこに至るまでの胸中を綴った手記を出版予定という情報を得て、関係者への取材を開始。そして7月中旬に発刊予定という手記を独占入手した。
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裁判冒頭、廷吏が告げた。
「本日、加藤智大被告の出廷はありません」
7月2日、東京高裁102号法廷で行なわれた加藤智大被告の控訴審第二回公判――。
証言台に立つ遺族らは、口々に怒りを露わにする。
「反省の一かけらもないと思う」「いいかげん、逃げるのはやめてください」
この言葉を受け止めるべき男はこの場にはおらず、法廷には遺族たちの虚しき思いだけが漂っていた。被告はなに故に、無辜(むこ)の人々を次々に殺傷したのか。加藤被告が獄中で記した『解』(批評社)と題された手記はこんな懺悔の言葉から始まる。
〈2008年6月8日、私は東京・秋葉原で17名の方を殺傷しました。直接被害にあわせた方やご遺族をはじめ、その関係者の皆様には本当に申し訳なく思っています。その刑事責任は逃れられるものではないと考えますし、逃れるつもりもありません〉
そして事件の全容を明かすことこそ、被害者や多くの関係者への償いに繋がるとして、「今回、改めて全てを説明しようと、この本を書くことにしました」と続けた。
実際、この手記には、公判では明らかにされなかった事件詳細と加藤被告の内面が述べられている。例えば2008年6月8日、12時33分、秋葉原で繰り広げられた惨劇の瞬間――。
〈4回目に交差点に向かう時には、心を殺していました。直前で、右側から1台の車が私のトラックの前に右折して入ってきて、その時私は、「これは行けない」と判断し、減速を始めました。「また失敗か」と、ほっとしました。しかし、見えてしまいました。対向車線を使って交差点に突入していける道が、です。
(中略)私の前に入ってきた車の右側に出て、加速して追い越し、左のミラーでそれを確認して車線を戻しました。(中略)そこに、ふたり並んでいる人が現れ、そのうち手前の人と目が合いました。その目は「なんで?」と訴えてくるようで、殺したはずの私の心が帰ってきました。しかし、「やっぱり嫌だ」と思った時にはもう、ぶつかっていました〉
加藤被告は、派遣先だった静岡のレンタカー店で借りたトラックを殺意を持って運転したが、歩行者天国の入り口となる交差点に差し掛かるたび逡巡して駅前を巡回した。
〈頭では突っ込むつもりでいるのに、体の方が勝手にブレーキをかけた〉
3回目も失敗したときには、トラックで人の中に突っ込むという考えに疑問を持ち始めたのだったが――。
〈掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りはできないところまで来てしまっていることに気づきました〉
※週刊ポスト2012年7月20・27日号