1999年に亡くなった後も、依然としてその人気が衰えることない、プロレス界の巨人・ジャイアント馬場(本名・馬場正平)。ここでは、ジャイアント馬場のプロレスデビュー直後、アメリカでの武者修行時代のエピソードを紹介する。
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懐中1ドルも持たずに初渡米武者修行に出た馬場正平と、芳の里、マンモス鈴木の両先輩をロサンゼルスで待っていたのは、力道山と義兄弟の契りを結んだ、グレート東郷だった。東郷は3人のためにモーテルの一室を借り、毎日、きっちり1日分の食材を運んでくれた。もちろん、この費用は後にギャラからきっちり引かれたが。昭和36年7月の事だ。
6年先輩の芳の里と、2年先輩の鈴木は、すぐに試合が組まれたが、キャリア1年足らずの馬場を、東郷は「まだ使いものにならない」と見ていたようで、芳の里と鈴木を迎えに来るたびに、馬場には、「ユーは試合がないのだから、ゆっくり寝ていなさい」と言い渡した。
いつも馬場には、「ユーはメシを食いすぎる。トイレットペーパーを使いすぎる」と、やかましかった東郷は、自邸にあった練習道具も使わせてくれなかった。練習すれば腹が減るから、ゆっくり寝ていろというわけだ。
東郷の噂以上のケチぶりに泣かされた馬場は、日本人街の人に頼んで芝刈りやペンキ塗りのアルバイトを世話してもらった。日給は25ドル。馬場は、ロードワークの後にその金から15セントのアイスクリームを食うのが、唯一の楽しみとなった。
ようやく試合に出場できたのは、渡米して2か月近くもたった8月25日のサンディエゴ大会。東郷に、「ゴリラのマネをしろ」と指示され、それを拒否した鈴木に代わっての出場だった。馬場は、田吾作タイツに高下駄を履いて登場、リングに塩をまいて四股を踏んだが、これは当時の日系レスラーのトレードマークで、馬場にはさしたる抵抗感はなかった。どんなスタイルでも、何の展望も開けない芝刈りよりは、試合に出場するほうがマシだったのだ。
相手は脂の乗り盛りのアート・マハリック。馬場はリングアウトで負けた。デビュー戦のギャラは、奇しくも芝刈りの日給と同じ25ドルだった。が、これは東郷が受け取り、“ビッグ・ババ”の名で連日出場するようになった馬場は、東郷から週給60 ドルを支給された。
9月に入って、馬場は大きな屈辱感を味わった。サンディエゴ大会で馬場は、時のWWA王者フレッド・ブラッシーとノンタイトル戦で対決した。しかし、セコンド・東郷の稚拙な日本語のアドバイスを聞き違えた事が原因で敗れ試合後、大勢のレスラーのいる控室で、東郷に下駄でポカポカと頭を殴られたのだ。
人前で泣いたことのない馬場が、大粒の涙を流した。馬場は、「もう我慢できない。帰国する」と覚悟を決めたが、飛行機代は持っていない。船での帰国運賃を調べたら、こちらのほうが断然高く、馬場はあきらめざるを得なかった。
文■菊池孝
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第3巻より