力道山亡き後、日本のプロレス界を牽引したのが巨人・ジャイアント馬場(馬場正平)。ここではジャイアント馬場の知られざる米国武者修行時代のエピソードを紹介する。
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アトキンス(米国でのマネージャー兼トレーナー)から力道山の訃報を聞かされたのは、急逝して3日後の12月18日だった。馬場は、ガーンというショックの後は呆然自失状態に陥り、数日間はボーッとしたままだった。そしてクリスマス・イブに馬場は、無性に兵庫県明石市の元子さん(後の馬場夫人)のことが思い出され、夢中で手紙を書いた。
目をつぶって投函すると、アトキンスとともにロスに飛び、日本遠征から帰国したばかりのグレート東郷から事情を聞いた。だが、力道山の没後に発足した日本プロレス新路線から、ゼニゲバゆえに絶縁された東郷は、それをひた隠しして、「リキが死んで、日本のプロレスは駄目になった。お前は米国に残れ」の一点張り。
しかし、提示された条件は契約金16万ドル(約5760万円=1ドル360円換算)、年収は手取り27万ドル(同9720万円)という超破格な金額だった。大卒初任給が2万円ほどの時代だ。この年収は、現在の貨幣価値に換算すると4億円~5億円に当たる。
だが馬場はキッパリと、「オレはアメリカに金を稼ぎに来たんじゃない。力道山先生の後を継ぐために修行しに来たんだ」と断った。昭和39年の新年早々に、明石の元子さんから、「お嫁になんて、いってません」という返事が来たのも、帰国を決めた理由となっていたのは否めない。
アトキンスは馬場に、大きな餞別を用意してくれた。2月5日にデトロイトでNWA世界王者ルー・テーズに、同17日MSGでWWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノに連続挑戦するという超ビッグマッチの2連戦だ。
馬場は王者奪取はならなかったが、アトキンスは120ドルに上がっていた週給を廃して、ギャラの全額が馬場の手に渡るようにしてくれた。MSGのギャラは6800ドル(約250万円)だった。アトキンスは馬場に、メーンイベンターの凄さ、名誉、ありがたさも教えてくれたのである。
そして帰国の途中ロサンゼルスでは、WWAの要望で時のWWA世界王者フレッド・ブラッシーに2回挑戦した。このロスでは、新路線から初渡米武者修行に送り出されたアントニオ猪木と出会い、「オレはもう要らないから」と持っていたドルを全額、餞別として贈っている。猪木もこれだけは後々まで感謝していた。
文■菊池孝
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第3巻より