いよいよ始まるロンドン五輪。数々の種目の中でも、女子柔道にはとりわけ金メダル獲得の期待がかかる。先陣を切るのは48kg級の福見友子選手(27才)。長く谷亮子に次ぐ“二番手”として、「悲運の柔道家」とも称されてきた。
福見は土浦日大高校に進学し、2年生となった2002年4月、初めて48kg級の女王・谷と対戦する。
全日本選抜体重別選手権の1回戦で対戦したふたりは、福見が大内刈りで“効果”を奪って勝利。当時、無敵を誇った谷が高校生に敗れたことは大々的に報じられ16才で一躍ヒロインとなった福見には無数のフラッシュが浴びせられた。
しかしこの勝利後、福見は同年代選手にすら勝てなくなり、タイトルから遠ざかる。母・早苗さんは「心に問題があった」と手厳しい。
「要は『私は強い』とうぬぼれたんです。どんな大会でも優勝しなきゃいけないんだと自分にストレスをかけてしまっていた」
立ち直るきっかけは、筑波大進学と、母が患った大病だったと兄・俊彦さんは回想する。
「友子は、柔道家としてだけでなく、学生としても優等生でした。筑波大にも一般入試で合格しているんです。ただし世間体はよくても、自宅では母に甘え、柔道がしんどい時には母にそれをぶつけていた。独り立ちしたのは、2004年に大学に入学して寮生活を送るようになってからですね。
そして2006年に母は脳の病気を患った。大きな大会を控えていた友子には内緒にしていたんですけど、優勝後に病気を知って、ふたりの立場は逆転した。母に甘えることはなくなり、むしろ母を安心させようと友子も自立したんだと思います」
リオデジャネイロ世界選手権の代表選考会だった2007年選抜体重別選手権でも、福見は産休明けの谷に勝利。谷に2度土をつけた唯ひとりの柔道家となった。しかし、世界選手権日本代表には、過去の実績を重視された谷が選ばれた。福見の関係者はこの選考を不服としてスポーツ裁判所に提訴する考えもあったが、福見自身は選考への不満を口にすることなく、黙して悔しさを押し殺した。
当時の感情を福見はこう語っている。
「私は谷さんに勝つことだけを目標にしていて、世界に目が向いていなかった。ロンドン代表に決まったいまは、国際大会に勝てなかった私が選ばれなかったのも当然だったと思います。あの時の経験によって、初めて私はオリンピックが現実的な目標になったんだと思います」
※女性セブン2012年8月9日号