ロンドン五輪で惨憺たる結果となった柔道ニッポン。競技4日目には、全日本チームは選手に対し箝口令を敷いた。
この日まで金メダルが1個という惨敗を受けて、報道陣に批判の矛先を向けられないよう、まずは選手の口を封じたのだ。
「選手や所属先の関係者は、不甲斐ない結果に落胆している。それと同時に全日本チームの首脳陣に対し不満を抱えていますね。正直、監督と強化委員長には辞めてもらいたいと皆が思っている。この2人がいる限り、柔道界の体質は変わらない」(実業団チームの関係者)
ロンドンの地で瓦解した日本柔道を象徴するエピソードがある。
大会初日に平岡拓晃が表彰台に上がったそのとき、男子監督の篠原信一および全日本柔道連盟(以下、全柔連)強化委員長の吉村和郎の姿は、会場にはなかった。60キロ級決勝で敗れた平岡に対し、健闘をたたえる言葉をかけることなく、彼らは帰路についていたのだ。
これは平岡に限った話ではない。大会期間中、全柔連の首脳陣は日本選手が敗れ去ると、表彰式を見届けることなく、そうそうに会場をあとにしていた。
どこの世界に、五輪でメダルを獲得した教え子をほったらかしにし、労いの言葉ひとつかけないスポーツ指導者がいるだろうか。全柔連関係者が証言する。
「これほど五輪メダリストを愚弄する行為はない。まして篠原は、誤審騒動はあったにせよ、12年前のシドニー五輪で銀メダルに終わり、決勝で敗れる屈辱を誰より知っている人間です。それなのに平岡に声をかけたのは翌朝。しかも、へらへらと笑いながら銀メダルを茶化していたそうです」
吉村にしても、5月の全日本選抜体重別選手権後、代表に決定した平岡の名を呼ぶときに「ひろあき」の名が読めなかった。4年前の北京五輪でも代表に選出され、2008年から選抜体重別を5連覇している日本王者の名を、強化を司る吉村が正確に把握していなかったのである。
原稿執筆時点(8月1日)で、日本柔道が獲得したメダルは金1銀2銅3だ。2004年アテネ五輪で金メダル8個(銀2)、2008年北京五輪では金4個(銀1銅2)を獲得したことを考えれば、惨敗といえる。
北京五輪後、日本男子柔道の監督に就任したのが篠原だった。本来ならば、8年間続いた斉藤仁前監督時代からコーチで入閣していた岡田弘隆の就任が既定路線だった。しかし北京で金メダルを獲得した内柴正人と石井慧以外の男子選手が不調に終わった責任をとらされる形で、それまでコーチ経験のない篠原が就任した。この人事を推し進めたのが、強化委員長の吉村だった。全柔連関係者が言う。
「吉村先生は、全柔連の上層部に対しても歯に衣着せぬ発言をする岡田さんではなく、意のまま操ることのできる子飼いの篠原を監督に据えたわけです」
2009年のロッテルダム世界選手権において、男子は金メダルがひとつも獲得できず、2011年パリ世界選手権でも、2個に終わった。それでもサッカーなどとは違い、いくら成績が不振でも監督の責任問題に発展することはない。実業団の柔道部監督が明かす。
「現在の全日本チームには長期的なビジョンがない。国際大会で負けたら『気合いが足りない』と根性論を持ち出し、合宿中も『アホ、ボケ』と選手のケツをたたくだけです。乱取りにしても、ひたすら数をこなすだけで、階級ごとに、海外選手を研究し、対策を練るようなことはしない。選手から信頼の厚いコーチの井上康生などは、監督らとの板挟みにあいながら、選手と外国人対策を練っていたようですが、ひとりの力だけでは限界がある」
■現地取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)
※週刊ポスト2012年8月17・24日号