7月某日、球界の重鎮が一堂に会した。「育成の鬼」と呼ばれた関根潤三氏、「野武士軍団」の豊田泰光氏、「350勝投手」米田哲也氏。球界の草創期から活躍し、すべてを知りつくした3人は、当時のプロ野球選手が置かれていた環境の厳しさを語る。
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豊田:昔の球団はとにかく、カネを出さなかったなァ。僕らが入団したころは、ピッチングマシンもなかった。
米田:グラウンドもガタガタで、イレギュラーは当たり前。外野もイレギュラーするからとゴロを捕りに前へ出てこないから、センター前ツーベースなんてのがよくあった。
豊田:内野もイレギュラーだらけだったけど、球団に文句をいったら、「自分でならしてこい」といわれるだけだからね。まァでも、おおらかではあったよね。雨天練習場の設備もないから、キャンプでも雨が降ったら練習は中止。時間があり余るから麻雀に花札をやって、暗くなったら飲みに繰り出すっていうパターンだったな。
米田:カネがないから、深夜2時に出て4時ごろに着く「ムーンライト」という半額の飛行機で移動するんですよね(東京-大阪、東京-福岡便に1960年代に存在した深夜割引便)。だから試合が終わっても、その時間まで飲んでなくちゃいけない。飲んでたらうっかり遅れるんですわ。それで慌てて、「悪い、遅れる!」って飛行機会社に電話したら、「待っときます!」って(笑い)。他の一般客はどうなんねんと。
関根:その他の移動は夜行列車で、寝台は3段ベッド。僕は荷物の棚だった。ひどいチームになると、通路に新聞紙を敷いて寝ているヤツがいた。皆それを跨いで便所に行く。
米田:それに当時は蒸気機関車でしょう。大阪から東京へ行くと、朝起きたら鼻と耳の中がすすで真っ黒になりましたよね。そのままダブルヘッダーに出るなんてのが当たり前でした。
※週刊ポスト2012年8月17・24日号