松田哲夫氏は1947年生まれ。編集者(元筑摩書房専務取締役)。書評家。浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。1996年にTBS系テレビ『王様のブランチ』本コーナーのコメンテーターになり12年半務めた松田氏が、作家にとどまらずタレントや歌手としても旺盛に活動していた野坂昭如氏の2回目の選挙を振り返る。
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東京地方区の選挙から九年の歳月が流れた一九八三年十一月のある朝、また野坂さん立候補の記事が新聞に出た。今度は衆議院選挙新潟三区に立候補して、田中角栄と対決するというのだ。
この日、野坂さんの家に、ぼくをはじめ、前回のスタッフ数人が集まった。ぼくも三十六歳になって、少しは分別もつくようになっていたし、会社をクビになるわけにはいかない。かといって、傍観者ではいたくなかった。九年前の記憶が蘇り、血が騒ぎだしていた。
このときも事務局長になってしまったぼくは、公示までにやるべきことを書きだし、運動全体の組織図を描き、各自に仕事を分担していった。ぼくが担当のポスターづくりでは、写真・篠山紀信さん、デザイン・和田誠さん、コピー・糸井重里さんという豪華メンバーでいこうと考え、お願いの電話をいれた。
三人ともすぐにスケジュールをやりくりして、翌日の夜には六本木のスタジオに全員集合してもらうことができた。野坂さんの人望なのだろうが、ぼくは敏腕プロデューサーにでもなったみたいで気分がよかった。
早速、新潟県におもむき、長岡市に選挙事務所を構えた。田中角栄の復活を賭けた選挙だったので、報道陣はここぞとばかりに集中してきて、事務所もあふれかえっていた。
ぼくは、前回の楽しい経験が忘れられず、今回も遊説隊長になった。雪が降りだした新潟の町や村、山や谷を巡るので、東京よりも一段とドラマティックだった。でも、めいっぱい会社を休むわけにはいかないので、序盤と終盤に新潟入りして選挙カーに乗ることにした。
ところが、ぼくのいない中盤に、吉永小百合さんが応援に駆けつけてくれた。ニュースを見ていて、悔しくてしかたがなかった。結局、この時も二万八千票ぐらいを得たが、野坂さんは落選した。
選挙当時の野坂さんの写真を眺めていると、不機嫌そうな表情が目立つ。口をへの字に結び、眉間に皺を寄せ何かに耐えながら黙しているのだ。笑顔の写真は一枚もない。これほど愛想のよくない候補者というのもめずらしい。
※週刊ポスト2012年8月31日号