今年の夏、目立ったものと言えば「タトゥー」と答える人が少なくないのではないだろうか。ビーチで街で、肌に模様や文字を入れた若者たちにやたら遭遇する。ファッションとして一気に広まりつつあるように見えるタトゥー。ただし、こうした現状を半ば苦々しい思いで見ている人がいる。日本の伝統刺青の巨匠・三代目彫よし氏である。日本の刺青は「隠す文化」と説く氏に、日本の伝統刺青と昨今のタトゥーブームについて聞いた。
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1979年に三代目を襲名し、以来、7000人近くに刺青を彫り、伝説の彫師とも称される三代目彫よし氏。まずは、これまでの来歴について。
――そもそも刺青に興味を持たれたきっかけは?
「日本の伝統的なものが好きだったんだよね。刀とか、武士とか、男っぽい世界。で、中学生のとき、図書館で『文身百姿』を見つけて、衝撃を受けた。刺青を入れた人のグラビアがびっちり載っている本でね。あれは表現しようのない感覚だったね。別世界の人間に出会ったような衝撃。それから何度も何度もこの本を見ていました」
――実際に彫るようになったのはいつ頃でしょう。
「中学1年か2年の頃から、見よう見まねで剃刀で自分の体を切って、彫るようになった。そうしているうちに、友達からやってよって言われて。でも自己流だから全然ダメ。今のように情報もないしね。21歳のときに横浜で初代彫よしに彫ってもらって、弟子入りを志願したんです」
――彫師になってからの苦労は?
「好きな世界に入ったわけだから、どんなことも苦労とは思わなかったね。ただ、うちの師匠は何ひとつ教えてくれなかった。見て覚える、感じて覚える、想像して覚える。自分の体に彫ってみて、どうですかって聞くんだけど、『うん』だけ。『うん』の中に本音を見出さなきゃならない。職人っていうのはこういうもんだと実感したね。いまは情報が発達して、技術は簡単に習得できるようになった。でも職人文化が失われて、精神性が受け継がれなくなった」
次に、若者がタトゥーを入れる状況についてどう考えているか聞いてみた。
「タトゥーという言葉はもともと日本になかったんですよ。アメリカンタトゥーが入ってきてから、ワンポイントの絵柄を若い子が気軽に入れるようになった。彫る側にも、『彫師』という感覚の人と、『タトゥー・アーティスト』という感覚の二通りいる。彫師は職人、タトゥー・アーティストは芸術家っていう意識を持っている」
――そもそもアメリカンタトゥーって何ですか。
「俺にしてみれば、日本風じゃないもの。例えば牡丹の花は日本だけど、チューリップは違う。バラは微妙……。ただこれはイメージだから曖昧で、個人個人違うもの。自分が日本風と思うものは喜んで彫るけど、そうじゃないものは苦手だね。英語なんかもイヤ。
それからアメリカンタトゥーは見せて歩くでしょ。日本の刺青は隠す文化。普段隠していて、ここぞ、というときに見せる。完全に別物、文化が全く違うんです」
ちなみに、ワンポイントが多いアメリカンタトゥーに対し、日本の刺青の特徴を、「物語や意味のある一枚絵で、全身を包みこむように彫ること」と、都留文科大学の山本芳美さんは解説している。
――アメリカンタトゥーを入れてほしいというお客さん、多いですか?
「来るねぇ。ものによっては相談に乗るけど、本音はやりたくない」
――街中で見て、「経験ないやつが彫っているなぁ」って感じるタトゥーはありますか?
「いやってほどありますよ、それは。良いか悪いかは、見る人が見なくてもわかるでしょ。マシンがインターネットで買える時代、買ったその日からタトゥー・アーティストだからね。一方で技術が進んで、こんなことができるのか、って驚くのもあるよね。まぁでも、時代の流れだからしようがない。他人のことをとやかく言う資格はない。俺も自分のお客さんには、日本の美学とか文化論、人生論やるようにしてるけどね、遠回しにね」
憂いつつも現実を直視し、我が道を貫かんとする彫よし氏。今後についてはどう考えているのか。
「いつまで続けるか、これが一番難しい。この人に彫ってほしいって、惚れられて受ける仕事だから、途中で放り投げるわけにはいかんからね。いつ辞めるか……。自分の技量に辟易して、俺もここまでだなぁって思ったことも何度もある。ただ、俺より下手なのもいっぱいいるし、俺が辞めてお客さんがそこに行って彫ったら悪いなぁと。もう少し腕磨いてやろうって思ってここまで続いてきたんです」
【三代目彫よし氏】
1946年静岡県生まれ。21歳のときに横浜初代彫よし氏に天女と龍の刺青を背中に彫ってもらい、1971年より部屋の住み込み弟子として入門。1979年、三代目彫よしを襲名。1980年代より海外のタトゥー・コンベンションに参加し、世界の彫師たちとも交流を持つ。研究資料のために蒐集されたものは、横浜の『文身歴史資料館』にて広く一般に公開している。作品集も多数出版。