7月23日、第19回小学館ノンフィクション大賞が発表された。応募総数は昨年をわずかに下回る306編。一方すでにプロとして実績を残している書き手の応募は増加傾向にあり、作品のレベルは高くなっている。
そんななか、圧倒的な支持で大賞(賞金500万円)を受賞したのは、ノンフィクションライターの山口由美氏の『R130-#34 封印された写真――ユージン・スミスの「水俣」』。世界的な写真家が「公害の原点」に迫った日々を追った記録だ。
20世紀を代表する写真界の巨匠、ユージン・スミス(1918-1978)。彼の代表作であり、人生最後のプロジェクトでもあったのが写真集「水俣」だ。なかでも有名なのが、胎児性水俣病患者の娘をいとおしむように胸に抱く母の姿をとらえた「入浴する智子と母」の一枚だろう。だがこの写真は、大きな反響を呼びながら、現在、被写体の両親の意向を受けて新たな出版や展示が出来ない、“封印された写真”となっている。
ユージンは太平洋戦争でサイパン、硫黄島などに従軍し、沖縄では重傷を負い、後遺症が残った。1961年には日立に招聘されて日本に滞在し、いつか日本で漁村を撮りたいと願う。その後、日立時代のアシスタントの知人から水俣病の話を聞いた彼は、31歳年下の日米混血の女子大生、アイリーンを伴って1971年に再来日する。そして、満身創痍の体で3年間にわたって「水俣」を撮影したのだった。
「水俣」のプロジェクトは、共同著者であり、来日後に妻となったアイリーン・スミスとの共同作業だったが、もうひとり重要な役割を果たした日本人アシスタントが写真家の石川武志である。彼の視点から、これまで語られることのなかったユージンの「水俣」がよみがえる。
ユージンが死の直前まで教鞭をとっていた米アリゾナ大学のCCP(Center for Creative Photography)には、「水俣」に関する膨大な資料が収蔵されていた。そこで見つけたノートには、「水俣」で撮影された560本のフィルムについての記述があった。「入浴する智子と母」の写真は、130ロール目の34枚目にあった――。
「入浴する智子と母」は、どのようにして撮影され、なぜ「封印」されるに至ったのか。 ユージン・スミスの生涯とともに、「水俣」の過去と現在を照射する。
※週刊ポスト2012年9月7日号