8月29日に開幕したパラリンピック。陸上競技に出場する日本人7人の義足の選手のうち、3人の“育ての親”が、義肢装具士の臼井二美男さんだ。
臼井さんは、義肢装具士になって28年。義肢装具士とは、事故や病気で脚や腕を切断した人々が使う義足や義手を一人一人に合わせてつくり、調整を施していく仕事だ。
義足は、切断端を包み込む「ソケット」と呼ばれる部分、すねの役割を果たす「チューブ」、地面との接点にあたるいちばん下の「足部」という3つの部分から成る。義肢装具士は、その義足を患者の切断端の形や体格、筋力、体の動かし方などまで考えて精密に組み立てていく。
臼井さんが誰も考えなかった試みを思いついたのは、義肢装具士になって数年後の30代半ばのことだ。
<義足の人たちに走ってもらおう>
以前の義足は「歩く」ためのもので、素材やつくりにさほどの強靱さもなく、激しい動きをすれば、壊れてしまうこともあった。毎日、何人もの切断患者と出会う中で、臼井さんは彼らが走れないことによって抱く喪失感がいかに大きいかを痛いほど感じていた。臼井さんは映画やテレビのドラマで、恋人同士が駆け寄ってきてしっかりと抱き合うシーンを見る度に思うことがあった。
<そんなシーンを見ると、義足の人たちはつらいんじゃないか。自分はもう走れないという悲しみばかりが身に迫るんじゃないだろうか>
その逆に、義足でも走れるようになれば、人生はもっともっと前向きになっていくのではないか──と感じた。
ちょうどそのころ、アメリカで激しい衝撃にも耐えられる「足部」や、速い動きに対応できる「ヒザ継手」(=人工のひざ)が開発されたのを知った。
アメリカから最新の「足部」と「ヒザ継手」を取り寄せ、「義足で走る」活動に取りかかったのが1992年のことだ。福祉センターに来る患者から運動能力のありそうな若者を探して、「どう、走ってみないか」とすすめた。
いちばん最初に試みたのは20代の女性だった。臼井さんは福祉センターの裏にある小道に、およそ50mの即席の練習コースをつくった。メジャーで距離を測り、そのコースにペンキで印をつけたのだ。
しかし、義足使用者には「走る」前に乗り越えなければならない“壁”があった。ヒザ継手が速い動きに対応できず、ガクリと折れてしまうかもしれない──その恐怖感だ。
女性は速歩きから始め、徐々に小走りへと切り替えた。次第にスピードが上がる。足が浮いた。確かに両足が浮いた。彼女はぎこちないながらも交互に脚を振り出して走った。
「すごい、すごいぞ」
臼井さんは思わず叫んだ。初夏の暑い日だった。
彼は続いて何人かの男女を誘った。最初はやはりひざ折れの恐怖が先に立つ。臼井さんは走り手の脇にぴたりと寄り添って声をかけた。
「義足を信じて!」「義足はついてくるよ」「勇気を出して」
初めは躊躇していた彼らも、練習を始めれば、その日のうちに走れるようになった。
「脚を失った人はもう走ることを取り返せないと思っていたんです。だから、ちょっと交互に足を出して走るだけで、感激して泣き出しちゃう人もいました」(臼井さん)
こうして彼は1990年代半ばに、義足使用者が走るための陸上クラブをつくって、東京・王子の東京都身体障害者総合スポーツセンターのグラウンドで月1回の練習会を開くようになった。
後に「ヘルスエンジェルス」と名付けたこのクラブの練習会には、ただ走ることを目指す人から、競技会への出場を考える人までさまざまな義足の人々が集まってきた。
義足も大幅な進化を遂げていた。以前、スポーツに使われていたものは、比較的激しい動きにも耐えられる生活用義足で、競技専用ではなかった。しかし、「走る」活動が広まるとともに、「板バネ」と呼ばれる競技専用義足が登場したのだ。板バネは、カーボンファイバー製の湾曲した一枚の板状のもので、軽量かつ強い反発力をもつ。臼井さんがこれを積極的に取り入れたことによって走者たちのタイムは大幅に向上し、競技レベルが飛躍的にアップした。
「自分には工学的な理論とか高度な知識があるわけじゃありません。時間と体を使って一人一人の面倒をみていくだけです。義足を使っている人たちのやりたいことや望みに応じてあげたいと思ってやっていたら、自然とこういう形になっていきました」(臼井さん)
※女性セブン2012年9月13日号