松田哲夫氏は1947年生まれ。編集者(元筑摩書房専務取締役)。書評家。浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。1996年にTBS系テレビ『王様のブランチ』本コーナーのコメンテーターを12年半務めた松田氏が、井上ひさし氏の「吉里吉里人」執筆当時を振り返る。
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井上ひさしさんの「吉里吉里人」だが、創刊号の第一回はギリギリで原稿が入り、なんとか掲載にこぎ着けることができた。
ホッとする間もなく、第二号の締め切り日が過ぎようとしていたころだった。ぼくは、いつものように井上さんに電話をいれた。「どうでしょうか? そろそろ頂けますか?」。すると、彼は「吉里吉里人」のこれからの展開を具体的に楽しく語り、一転して他誌のギリギリまできている原稿の状況をやや沈痛な口調で話し始めた。
かなり能天気なぼくでも、締め切り日に原稿がもらえるなどという甘い考えでいたわけではない。ただ、何としても休載だけは避けたかった。そこで、校正や挿絵のことなど、入稿後の作業についてクドクドとしゃべった。そして、最後にどう言えばいいか考えあぐねて、自分に語りかけるようなつもりで「困りましたねえ」と付け加えたのだ。
その時、電話の向こうから、激しい怒りを抑えているということがはっきり判る声が返ってきた。「『困る』とはなんですか。原稿が書けなくなって一番困るのは、出版社の人間ではなくて自分です。会社の人間と違って、そうなったからといって誰も助けてはくれない。そうでしょう。……そちらが『困ります』というのであれば、ぼくとしては書けません」
いつもよりやや甲高い声音で一息に話すと、井上さんは一方的に電話を切った。ぼくは凍りついた。ながい編集者人生でも一番衝撃的な瞬間だった。
あわてて電話をかけ直し丁重にお詫びをしたが、井上さんは「ぼくも言いすぎました。でも、今は原稿に向かおうという気持ちになれません」と言う。ぼくは途方に暮れて、編集長の原田さんに相談した。その結果、あってお詫びするのではなく手紙を書こうということになり、その晩、市川にある井上さんのお宅にでむき、謝罪文をポストに入れてきた。
かなり緊張したが、数日後から連絡を再開した。校了日をすぎたあたりでホテルに缶詰めになってくれ、本当のギリギリになって原稿は入りはじめた。部屋のドアを少しあけて渡された最初の一枚のうれしさは喩えようもない。
「第二章 俺達の国語ば可愛がれ……」、ぼくは廊下で貪るように読んだ。それから、渡される枚数は三枚、五枚と、少しずつ増えていく。ぼくは、吉里吉里国の運命を、真っ先に読めるという贅沢に酔いしれていた。
※週刊ポスト2012年9月7日号