【書評】『二重生活』(小池真理子/角川書店/1890円)
【評者】柳亜紀(弁護士)
大学院生の白石珠はある日近所に住む既婚男性・石坂史郎を尾行してしまう。そして珠は、石坂の不倫現場を目撃する。他人の秘密を知ることにぞくぞくとした興奮を覚えた珠は、石坂の観察を繰り返すのだが…。
夫や恋人の浮気を疑って尾行した経験のある人はいるだろうか? 法律的に言えば、“不安や迷惑を覚えさせる方法”をとったり、“恋愛や怨恨などの感情によるつきまとい”をしたりしない限り、尾行は違法ではない。
しかし、人の秘密を知ろうとする行為は悪趣味という他ない。よほどの目的がない限り、普通の人は他人をつけたりしないだろう。
本作は、大学院生の主人公が“目的のない”尾行をするという異色作品だ。主人公の珠がめざすのは<哲学的・文学的尾行>。ソフィ・カルという実在するアーティストに影響されて始めるのだが、凡人の読み手としては尾行と哲学にどんな関係があるのかピンとこず、どうにも居心地が悪い。しかし、近所の男性の尾行を始めた珠が目にするのは典型的な不倫現場。ゾクゾクしながら物語に一気に引き込まれてしまう。
尾行される石坂史郎は、大手出版社に勤務し、幸せを絵に描いたような家庭を築いている。しかし、ベンツで駅まで送ってくれた妻に笑顔で手を振った直後に、装幀家の恋人とカフェで逢い、ビルの陰で熱いキスを交わすイチャイチャぶり。
12月22日を“俺たちのクリスマスイヴ”として過ごすため、ホテルの部屋をスウィートにするかどうか相談する場面、休日に恋人に連絡をとるため洗車するふりをして車の中からこっそり電話したり、帰宅してドアを開ける直前に携帯をチェックしたりする行動、妻に不倫がバレてしまい、それと並行するように恋人との関係がギクシャクしていく様子など、不倫ディテールの積み重ねは作者の本領発揮といえる精緻さだ。
そうした不倫に関する描写だけでも楽しめる本作だが、尾行にはまっていく主人公・珠の心理描写の繊細さが読みどころとなっており、ただの覗き見に終わらない。
ひたすら波風の立たない恋愛をのぞんでいた珠だが、人の秘密を観察するうちにその心境が変化していく。自分の恋人も浮気をしているのではないかという強烈な猜疑心と妄想が膨らみ、同時に、珠自身が秘密にしている苦しい不倫の過去も蘇ってくるのだ。
法律ではおよそすくい取れない男女の機微を、説得力を持って描いた本作。法律では人の裏面を暴くことはできても、二重にも三重にもなりえる人間の生活全体を描くことはできない。それができるのは、小説をおいて他にないと改めて感じる作品である。
※女性セブン2012年9月13日号