今はなき昭和の野球場をたどるコーナー。今回は、近鉄バファローズが本拠地を構えていた藤井寺球場を紹介する。一軍本拠地としては最後まで手動式のスコアボードを使っていたこの球場では、若き日の中村紀洋も汗を流していた──。
藤井寺球場は長い間、近隣住民とのトラブルを抱えていた。当初はナイター設備がなく、近鉄は日本生命球場と大阪球場でナイトゲームを開催していた。そのため1973年、近鉄はナイター設備の設置を含めた改修工事計画を発表する。しかし球場が住宅地の中にあったため、鳴り物応援の騒音などを危惧した住民から反対運動が起き、大阪地裁に工事差し止めの仮処分を申請。これが受理され、照明灯の鉄塔が建った段階で工事が中断されてしまったのだ。
ようやくナイター設備に光が灯ったのは、着工から10年後の1984年4月のこと。外野スタンドに防音壁を作り、鳴り物の応援をしないという条件がつけられた。悲願だったナイターの南海戦では、「南海電車はボロ電車、近鉄特急は二階建て」と嬉しそうにヤジる応援団の姿が何度も見られたものである。
設立は1928年5月と、甲子園に次いで古い。外野の膨らみのない球場で本塁打が出やすそうだが、近鉄OBの多くは、「生駒降ろしの逆風の影響で、なかなか出なかった」と語る。
内部設備も当然古く、トイレは汲み取り式だった。外国人選手ドン・マネーは「ゴキブリが出るような場所ではやれない」とさっさと帰国してしまった。
ただ、そこには古き良き球場のおおらかさがあった。何よりファンと選手の距離が近かった。球場正面を入って左手にある食堂には、選手も気楽にやってきてサインに応じ、写真を一緒に撮ってくれた。ライト後方には若手選手たちの合宿所があって、若き日の中村紀洋(現横浜)もそこにいた。「20本本塁打を打つまでは夜間外出禁止」を誓った中村は、それを達成した1995年、藤井寺の商店街の人たちと酩酊するまで飲み明かしている。
※週刊ポスト2012年9月14日号