今は亡き昭和の野球場をたどるこのコーナー。今回は、近鉄バファローズが本拠地を構えていた藤井寺球場のエピソードを紹介する。長らく低迷期が続いた近鉄も、西本幸雄監督の熱き指導のもとで強豪チームへと変身。1985年には球場の大改装も行われ、風呂場には大浴場ができた。
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近鉄・藤井寺駅から球場まで線路に沿って歩く約1キロの道沿いには屋台が並んでおり、近鉄が勝利すると値下げが行なわれた。
ところが試合に負けると、相手チームの野球帽を見た気性の荒い河内っ子たちが、誰彼構わずつかみかかり、喧嘩になるのも年中行事だった。商店街の人たちは、「近鉄が強くなれ」と祈っていた。その方が平和になると思ったに違いない。
近鉄が強くなったのは西本幸雄監督時代が終わりを告げ、ナイター設備ができた藤井寺で腰を据えて闘うようになった、仰木彬監督の時代であった。1984年5月、「草魂」鈴木啓示が300勝を達成。1985年、1989年にはオールスター戦が開催された。大阪・岸和田出身の清原和博(当時西武)は、「ここの応援は敵にするとえげつないけど、味方になるとごっつい頼りになる」とパ・リーグにいたことを喜んでいた。
1985年には球場の大改装も行なわれた。選手ロッカーは広くなり、風呂も大浴場ができて、皆が一緒に入った。1987年に来日したオグリビーは「黒人の自分と差別なく一緒に入ってくれた」と喜んで、風呂で泳ぎ出す始末だったと、近鉄OBの阿波野秀幸(現巨人二軍コーチ)が語っていた。
1989年にパ・リーグを制覇。しかし、日本シリーズでは巨人を相手に3連勝から4連敗を喫する。第7戦は藤井寺。巨人の胴上げを見ながら、多くのファンが涙を流した。
1990年代に入ると、野茂英雄の入団が藤井寺を満員にした。初登板となった西武戦、4番・清原を無死満塁から空振り三振に打ち取ったシーンでは、周囲の住宅がいくら防音サッシをつけても防ぎきれないほどの歓声が上がった。野茂が登板する日には「本日、野茂登板です」というビラが近鉄沿線で配られていた。予告先発などない時代なのに、周囲もおおらかだった。
※週刊ポスト2012年9月14日号